志賀直哉のお墓(10月21日が命日)
2024/10/21
志賀直哉のお墓(10月21日が命日)
志賀 直哉(しが なおや、
1883年〈明治16年〉2月20日 -
1971年〈昭和46年〉10月21日)は、
日本の小説家。日本芸術院会員、
文化功労者、文化勲章受章者。
宮城県石巻生まれ、東京府育ち。
明治から昭和にかけて活躍した
白樺派を代表する小説家のひとり。
「小説の神様」と称せられ
多くの日本人作家に影響を与えました。
代表作に「暗夜行路」「和解」
「城の崎にて」「小僧の神様」など。
戦争が終わると直哉は作家としての活動を再開、
世田谷新町の地から作品を次々と発表します。
1946年(昭和21年)、自ら立ち上げに関わった
雑誌『世界』の創刊号に「灰色の月」を発表。
敗戦直後の東京の風景を描いたこの作品は
久々の話題作となりました。
また「天皇制」「鈴木貫太郎」「国語問題」といった
時事エッセイも残しています。
1947年(昭和22年)には日本ペンクラブの会長に就任。
同クラブが主催した講演会にも、
その挨拶文として時事エッセイ「若き世代に愬ふ」を提供し
聴衆に強い感銘を残します。
しかし焼け野原の東京での暮らしに
嫌気が差したこともあり、1948年(昭和23年)、
直哉はペンクラブ会長の任期途中で
熱海市大洞台の山荘に移住。
以後、東京に顔を出すことが少なくなります。
熱海の地で直哉は「山鳩」や
「朝顔」といった作品を残しました。
1949年(昭和24年)には、
親交を深めていた谷崎潤一郎と共に
文化勲章を受章します。
1971年(昭和46年)10月21日午前11時58分に
肺炎と老衰により関東中央病院で没します。
23日に代々幡斎場で荼毘に付され、
26日に青山葬儀所での
葬儀・告別式は本人の希望により
無宗教式で執り行われました。
国立音楽大学ピアノ科在学中の孫娘・柳美和子
(四女万亀子の娘)がピアノ演奏するなか、
葬儀委員長の里見弴が弔辞を述べ、
東大寺の上司海雲と橋本聖準が読経、
その後参列者による献花が行われました。
また葬儀に駆けつけた86歳の武者小路実篤が、
急遽原稿なしで遺影に語り掛けるように弔辞を述べますが
細々とした声で聞き取れた者はいませんでした。
遺骨は濱田庄司制作の骨壺に納められ
青山霊園に葬られますが、
1980年(昭和55年)に
盗難に遭って行方不明となっています。
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