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吉田茂のお墓(10月20日が命日)

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吉田茂のお墓(10月20日が命日)

吉田茂のお墓(10月20日が命日)

2024/10/20

吉田茂のお墓(10月20日が命日)

 

吉田 茂(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 -
 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、
日本の外交官、政治家。
位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓・竹内。

内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、
外務大臣(第73・74・75・78・79代)、
農林大臣(第5代)、第一復員大臣(第2代)、
第二復員大臣(第2代)、衆議院議員(7期)、
貴族院議員(勅選議員)、皇學館大学総長(初代)、
二松学舎大学舎長(第5代)を歴任しました。

 

東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、
内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から
1947年5月24日、及び
1948年10月15日から1954年12月10日まで在任します。

優れた政治感覚と強いリーダーシップで
戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、
戦後日本の礎を築きました。
ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく
愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれました。

 

死去前日の10月19日に「富士山が見たい」と病床で呟き、
三女の和子に椅子に座らせてもらい、
一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、
これが記録に残る吉田の最期の言葉でした。
翌20日正午ごろ、大磯の自邸にて死去した。
突然の死だったため、その場には医師と
看護婦3人しか居合わせず、
身内は1人もいなませんでした。
臨終の言葉もなかったが、
「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」
で穏やかに逝ったといいます。
享年90(満89歳没)。

 

佐藤栄作首相は東南アジア訪問中でしたが、
予定を繰り上げて21日夜に帰国、
羽田空港から吉田邸に直行して遺体と対面します。
22日未明に鎌倉の別邸に戻り、
同日夜に再度吉田邸を訪問します。
棺に納められていた吉田愛用のステッキが
遺族から佐藤に贈られます。
佐藤は代わりに自分のステッキを棺に入れました。

10月22日に死後洗礼を受け、洗礼名は
「ヨゼフ・トーマス・モア吉田茂」。
10月23日に東京カテドラルで密葬が行われます。
長男の健一は浄土宗での葬儀を希望したが、
長女の桜子、三女の和子、次男の正男が
カトリック葬を希望します。
東京カテドラルは、1941年10月に妻・雪子の葬儀が行われ、
吉田が涙を流した場所でした。代々幡火葬場で火葬され、
遺骨は大磯の祭壇に置かれました。


10月31日には戦後初の国葬が日本武道館で行われ、
官公庁や国公立の学校は半休、公営競技も開催を終日取り止めます。
テレビ各局も国葬実施前後に派手な番組や
コマーシャルメッセージ(CM)の放送を行うことを
自粛すると共に、実施当日は特別追悼番組を
放送して吉田を偲びました。

戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。


遺骨は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと
並んで葬られたが、2011年に神奈川県横浜市の
久保山墓地に改葬されました。
その後、大磯旧吉田茂邸内の七賢堂に
人物神として祀られています。
 

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