ビリー・ホリデイのお墓(7月17日が命日)
2024/07/17
ビリー・ホリデイのお墓(7月17日が命日)
ビリー・ホリデイ(Billie Holiday) ことエレオノーラ・フェイガン
(Eleanora Fagan, 1915年4月7日 - 1959年7月17日)は、アメリカ合衆国のジャズ歌手。
「レディ・デイ」の呼称で知られ、サラ・ヴォーンやエラ・フィッツジェラルドと並んで、
女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の1人に数えられます。
彼女はその生涯を通して、人種差別や薬物依存症、
アルコール依存症との闘いなどの壮絶な人生を送った。
彼女の存在は、ジャニス・ジョプリンをはじめとする
多くのミュージシャンに影響を与えました。
彼女の生涯に於いて代表的なレパートリーであった「奇妙な果実 (Strange Fruit)」や
「神よめぐみを (God Bless' the Child)」、「I Love You, Porgy」、「Fine and Mellow」などは、
後年に多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ボーカルの古典となりました。
彼女の死から約40年後の2000年にはロックの殿堂入りを果たします。
また2003年には、「Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」
において第12位に選出された。
何年も前から、ビリーは病に侵されていた。両脚には浮腫が出現していたし、
何よりも肝硬変が悪化していました。それでも彼女は酒を止めることができず、
朝から晩まで酒を飲み続けます。
2回目のヨーロッパ・ツアーで彼女は疲労していましたが、数ヵ月後には再びロンドンへ渡り、
『チェルシー・アト・ナイン』というテレビ番組に出演します。帰国は困難を極めました。
1959年3月15日、ビリーはレスター・ヤングの訃報を耳にします。
埋葬のとき、レスターの妻はビリーが唄うことを拒絶、
嘆きと悲しみにビリーは泣き崩れたそうです。
葬儀からの帰路でビリーはこう呟いたと伝えられる…
『あいつら、唄わせてくれなかった。この次はあたしの番だわ』。
翌4月7日、彼女は44歳を迎える。マサチューセッツでの複数の契約を果した後、
5月25日にはニューヨークのフェニックス・シアターでの
チャリティー・コンサートで唄っています。
舞台裏では友人たちが彼女のあまりの変貌に驚き、
ジョー・グレイザーなどは彼女を入院させようとするが、彼女は聞き入れませんでした。
5月30日、彼女は自宅で倒れ、ハーレムのメトロポリタン・ホスピタルに入院を認められる
(その前にニッカーボッカー病院で入院を拒否されたのは、
麻薬常習者は昏睡状態にあっても受け入れられないという理由からでした)。
肝硬変以外にも、腎不全の診断が下される。メサドン治療が施され、
少しずつ回復するかに見えた。アルコールと煙草は禁止されていたが、
ビリーは隠れて喫煙を続けます。
更に悪いことに、6月11日、彼女のハンカチ箱の中から僅かな白い粉が発見されます。
彼女は逮捕され、病室で何日間か警察の監視下に置かれます。
裁判は彼女の回復を待って行なわれることになりました。
回復は順調に見えたが、7月10日、病状は急変します。
腎臓感染と肺うっ血が認められました。
ルイ・マッケイとウィリアム・ダフティが病床に駆けつけました。
7月15日早朝、ビリーはローマ・カトリック教会の最後の秘蹟を受けます。
1959年7月17日朝3時10分没。 44年の生涯でした。
葬儀は1959年7月21日、セント・ポール教会で行なわれました。
3,000人の群集が参列し、人の波はコロンバス・アベニューまで続いたそうです。
遺体はブロンクスのセント・レイモンド墓地にある母親の墓石の下に埋葬されました。
1960年、ルイ・マッケイは彼女の棺を別の墓に移動させました。
その死に当って、ビリーが唯一の相続人であるこの前夫
(まだ離婚手続きは完了していなかった)に遺したのは1,345ドルでした。
しかし僅か6ヵ月後の1959年末には、彼女のレコードの印税は10万ドルに上りました。
アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨーク セント・レイモンズ墓地に眠ります。
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