志村喬のお墓(2月11日が命日)
2024/02/11
志村喬のお墓(2月11日が命日)
志村 喬(しむら たかし)
1905年〈明治38年〉3月12日 - 1982年〈昭和57年〉2月11日)は、
日本の俳優である。本名は島崎 捷爾(しまざき しょうじ)。
身長163cm。実兄の島崎敬夫は横浜ゴム社長を務めた人物です。
兵庫県朝来郡生野町出身。舞台俳優を経て映画俳優となり、
戦前は時代劇などで活躍したのち、戦後は東宝を中心に数多くの作品に出演。
特に黒澤明監督作品には欠かせない俳優でした。
<クロサワ作品には欠かせない俳優>
黒澤作品には欠かせない存在として、21本の黒澤作品に出演しました。
黒澤の最初期の作品では脇役を演じましたが、
1948年(昭和23年)の『醉いどれ天使』で主演に抜擢され、
酔いどれ医者役を好演します。
続いて1949年(昭和24年)には、『野良犬』で三船敏郎と組むベテラン刑事役を、
『静かなる決闘』で三船の父親役を演じ、
この二つの演技で毎日映画コンクール男優演技賞を受賞します。
『醉いどれ天使』以降の作品では三船とのダブル主演の作品がほとんどだが、
1952年(昭和27年)の『生きる』ではワンマン扱いで主演しました。
癌に侵された市役所員を頬骨が見えるほど減量して好演、
NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛され、
黒澤にとっても志村にとっても一世一代の作品となりました。
1954年(昭和29年)の『七人の侍』では侍達のリーダー勘兵衛役で、
お荷物的存在・菊千代を演じる三船と対照を成すダブル主演。
それまでの性格俳優的なイメージを一新する沈着豪胆なヒーロー像を打ち立て、
『生きる』と並び生涯の代表作としました。
『生きものの記録』を最後に加齢のため主役級を降板。
以後は脇役として黒澤作品への出演を続け、癖の強い悪役なども演じました。
最後の黒澤映画は『影武者』。
1961年(昭和36年)には黒澤の代理としてベルリン映画祭に出席、
多くの欧米の映画人から祝辞を述べられました。
60代に入る頃から病気がちとなり、1974年(昭和49年)に肺気腫と診断されるが、
それでも映画やテレビに出演を続け、入院中の同年には紫綬褒章を受章します。
しかし1977年(昭和52年)ごろから病状は悪化、入退院を繰り返していました。
1980年(昭和55年)に勲四等旭日小綬章を受章。
1981年(昭和56年)に映画『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』に出演。
前年の撮影現場では病気を隠して役を演じきり、何とか無事に撮影を終えました。
1982年(昭和57年)2月11日(木曜日)午後10時41分に
慢性肺気腫による肺性心で、慶應義塾大学病院で死去(享年76歳)。
<鎌倉のお寺に眠る>
神奈川県鎌倉市の瑞泉寺に志村喬は眠ります。合掌=
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