源頼朝のお墓(2月9日が命日)
2024/02/09
源頼朝のお墓(2月9日が命日)
(ユリウス暦) 1199年 2月9日 死去享年53歳
源 頼朝(みなもと の よりとも、旧字体: 源 賴朝󠄁)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家。
鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)。
清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、
父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流されます。
伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、
北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、
鎌倉を本拠として関東を制圧します。
弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、
戦功のあった末弟・源義経を追放の後、
諸国に守護と地頭を配して力を強め、
奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼします。
建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられました。
これにより、朝廷と同様に京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、
東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれました。
<頼朝の容姿は『男前』だったのか??>
『平治物語』は「年齢より大人びている」とし、
平治物語絵巻断簡には頼朝と見られる若武者の姿が残る。
『源平盛衰記』は「顔が大きく容貌は美しい」と記しています。
寿永2年(1183年)8月に鎌倉で頼朝と対面した中原泰定の言葉として
『平家物語』に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」
とあります。九条兼実の日記『玉葉』は
「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、
成敗文明、理非断決」(10月9日条)と書いています。
身長は大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると
165センチメートル前後はあったとされ、当時の平均よりは長身です。
<頼朝は人気がない??>
人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多いです。
それは、自らを助命した平家を滅亡させたことに加え、
権力基盤を固める過程で多くの同族や兄弟、
部下を死に追いやったことが一因でしょう。
特に判官贔屓で高い人気を持つ末弟・義経を死に至らせたことなどから、
頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、
小説などに主人公として描かれることも少ないようです。
<神奈川県・鎌倉の法華堂跡に眠る>
建久9年(1198年)12月27日、
頼朝は相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩します。
原因は落馬とも病気とも言われるが定かでありません。
建久10年(1199年)正月11日に出家。正月13日に死去しました。享年53(満51歳没)。
鎌倉の法華堂跡(源頼朝墓)に眠ります。
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