勝海舟のお墓(1月21日が命日)
2024/01/21
勝海舟のお墓(1月21日が命日)
勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉-
明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家。
位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。
初代海軍卿。
江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。
山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれます。
海舟は日本海軍の生みの親ともいうべき人物であり、
連合艦隊司令長官の伊東祐亨は
海舟の弟子とでもいうべき人物でしたが、
福沢諭吉が野蛮な国を教え導くための「正しい戦争」であるとし、
鼓舞・正当化した日清戦争には反対の立場をとりました。
清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際は
海舟は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿しています。
海舟は戦勝気運に盛り上がる人々に、
安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、
中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、
卑下したり争う相手ではなく、
むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張しました。
三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も
海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。
晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、
政府から依頼され、資金援助を受けて
『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、
『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの
執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる
「徳川氏実録」の編纂計画に対して向山黄村に活動資金を与え、
編纂阻止工作にあたらせこれを妨害しました。
結果、この計画は実現しませんでした。
またその独特な談話、記述を理解できなかった者からは
「氷川の大法螺吹き」となじられることもありました。
晩年は子供たちの不幸にも悩み続けるなど、
孤独な生活だった海舟でした。
足尾銅山の鉱毒問題について、水害への懸念、
民心の不安、銅の精錬の燃料のために
日光の樹木を伐採することへの懸念などの視点から
「文明流にせよ(「よく理を考えて、民の害とならぬ事をする」の意)」
と批判しています。
明治32年(1899年)1月19日、風呂上がりに
トイレに寄った後に倒れ、侍女に生姜湯を持ってくるように頼んだが、
間に合わないとして持ってこられたブランデーを飲んで
すぐに脳溢血により意識不明となり、息を引き取りました。
海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。享年77。
<お墓は東京都大田区の洗足池のほとりに>
墓は海舟の別邸 洗足軒のあった
東京大田区の洗足池公園にあります。
洗足軒は後の戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っています。
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