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小林一茶のお墓(1月5日が命日)

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小林一茶のお墓(1月5日が命日)

小林一茶のお墓(1月5日が命日)

2024/01/05

小林一茶のお墓(1月5日が命日)

小林 一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日) - 
文政10年11月19日(1828年1月5日))は、日本の俳人。
本名は小林弥太郎[† 1]、一茶とは俳号です。
別号は圯橋、菊明、新羅坊、亜堂。庵号は二六庵、俳諧寺。
信濃国柏原で中農の子として生まれました。
15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、
「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ
江戸時代を代表する俳諧師の一人となりました。

 

<芭蕉・蕪村と並ぶ俳人>
一茶は運命的には薄幸の人です。
実母は三歳の時に死去。祖母には可愛がられましたが、七歳の時、
継母がきて仙六という弟ができてから、ひねくれ者になったといいます。
祖母が死んだ翌年、継母との折り合いが悪く、江戸へ奉公に出されます。
心の安らぎを求めて、俳諧師・二六庵竹阿の門を叩き、
九年後に“一茶”の号を貰った。
三十八歳の晩春、一茶が故郷に帰ってみたら、父が病に倒れていました。
一ヶ月の看病記録が、有名な『父の終焉日記』となります。
父への敬愛、継母や弟に向ける憎しみの記録です。


初七日の日、父の遺言「財産は兄弟均等に分けるよう」を守るといった
継母の言葉を信じて江戸に帰りますが、弟は一茶の思いをはねつけます。
弟との談判は、江戸奉行所に訴え出るまでの争いになり、
それをみかねた明専寺の住職が仲に入り、
一茶は三十五年もの漂浪生活も終ったと思い妻をもいますが、
初婚は九年目で妻の死をもって終焉。
四人生まれた子のうち三人を失うなど、
晩年の苦しみは目にあまるものがあります。
苦労の連続だったんですね=

 

一茶の俳句は「生」をテーマとしていると言われています。
句作の特徴としてはまず2万句以上という多作であったこと、
内容的には苦労続きの人生を反映した、
生活苦や人生の矛盾を鋭く捉えた句、童謡を思わせる子どもや
小動物を詠んだ句などが代表的なものとされ、
表現方法では擬声語、擬態語、擬音語といった
オノマトペの多用が特徴として挙げられます。
作風の俗っぽさなどに対する根強い批判もあるが、
「生」をテーマとする句は多くの人々に受け入れられ、
小説や音楽のテーマとされ、故郷の柏原(長野県信濃町)などでは
一茶にちなんだ行事が行われており、一茶をテーマとした記念館も建設されています。

 

<お墓は生まれ故郷の長野県信濃町に>
長野県上水内郡信濃町・小丸山墓地にお墓があります。合掌=
 

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