小村寿太郎のお墓(11月26日が命日)
2024/11/26
小村寿太郎のお墓(11月26日が命日)
小村 寿太郎(こむら じゅたろう、1855年10月26日
(安政2年9月16日) - 1911年(明治44年)11月26日)は、
日本の外交官、政治家。
外務大臣、貴族院議員(侯爵終身)などを務めました。
イギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮(韓国)の
公使・大使を務め、特に2度の外相時代には
日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、
条約改正の完成(関税自主権の完全回復。治外法権は陸奥宗光が改正)
などの業績をのこし、近代日本外交を
体現した人物として知られます。爵位は侯爵。
1911年(明治44年)8月25日、
第2次桂内閣は総辞職し、8月30日、
第2次西園寺内閣が成立します。
桂は、小村の外相留任を希望していたが、
原敬を中心とする与党の立憲政友会は、
桂の影響力が新内閣に残るのを嫌い、
後継外相に内田康哉を迎えました。
外相を辞して政界を引退した小村は、
9月に神奈川県葉山町に転居します。
貧乏生活は変わらなかったが、好きな酒を飲み、
読書を楽しみながら生活します。
腸チフス、肺尖カタル、肋膜肺炎と
大病を繰り返していた小村だが、
1910年にも肛囲炎で2度の手術を受けて、
満身創痍の状態でした。
11月に入り、熱が出始め、11日には
肺に痛みを感じるようになったため
床に伏せるようになります。しかし、読書熱は衰えず
アルフレッド・テニスンの詩集は常に傍らに置いていました。
来客ともよく語り、特に親友の杉浦重剛が見舞いに来た際には
喜んで長時間話し込みました。
容体が急変したのは11月22日。23日には脳膜炎の症状が現れ、
24日に桂と寺内が訪ねてきたときには
言葉を交わすことができませんでした。
25日は杉浦ら旧友が集まったが、小村は呼吸困難な状態であり、
やがて危篤に。11月26日、
小村寿太郎は葉山の自宅で死去。満56歳。
12月2日、小村の外務省葬が執り行われました。
墓所は東京都港区の青山霊園にあります。
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