立川談志のお墓(11月21日が命日)
2024/11/21
立川談志のお墓(11月21日が命日)
七代目 立川 談志(たてかわ だんし、
1936年〈昭和11年〉1月2日 - 2011年〈平成23年〉11月21日)は、
日本の落語家、政治家。落語立川流家元。
本名:松岡 克由(まつおか かつよし)。
出囃子は「木賊刈(とくさがり)」「あの町この町」。
古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を
絶えず意識しつつ、長年にわたって
理論と感覚の両面から落語に挑み続けました。
古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする
野心的努力が高く評価されますが、
その荒唐無稽・破天荒ぶりから
好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でした。
落語のみならず、講談、漫談をも得意とするなど、
芸域の広さで知られます。
五代目三遊亭圓楽、三代目古今亭志ん朝、
五代目春風亭柳朝(柳朝没後は八代目橘家圓蔵)と共に
「江戸落語若手四天王」と呼ばれました。
自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗りました。
参議院議員(1期)、沖縄開発庁政務次官(三木内閣において36日間)、
サイバー大学客員教授などを歴任しました。
2011年3月6日、川崎市麻生市民館麻生文化センターでの
「立川談志一門会」にて、咳き込みながら
『長屋の花見』『蜘蛛駕籠』を披露。
これが談志にとって生涯最後の高座となりました。
3月21日に入院し、翌日に手術が行われます。
ストレス性胃潰瘍と公表していましたが、
実際には声門癌の進行による呼吸困難症状が発生し、
気管切開手術(声帯にメスを入れる)で一命を取り留めたものの、
この手術で声を失うことになります。
本人の希望で4月18日に退院後は自宅で療養しますが、
以降のすべての仕事をキャンセルしたと発表し、
現実に後述の『週刊現代』の連載の執筆を除き、
その死まで一切仕事は行いませんでした。
5月21日の「立川キウイ真打昇進記念パーティー」は
演芸関係者だけではなく一般参加者の募集も行われ、
事務所の「すべての予定のキャンセル」発表後も
談志出席のまま告知が続けられていました。
さらにキウイも問い合わせに対し
「師匠からは出席の返事をいただいています」
と回答していたため、パーティへの出席の期待はありました。
しかし談志は会場に姿を見せず、
「(5月2日に死亡したとされる)ビン・ラディンの喪に服するため」
との欠席理由が発表されます。
続くキウイの真打披露興行(6月30日・7月19日)にも
登場が告知されていましたが、会場に足を運ぶことはなく、
弟子の真打昇進記念パーティー・興行を欠席した
唯一の例外となりました。ただし、談志は5月の
パーティーと7月の真打披露興行の数日後、
キウイのアルバイト先であり自身の行きつけの店でもある
東京・銀座のバーに足を運び、直接キウイにメッセージを送っています。
8月2日、死去の誤報をどこからか聞きつけた
日本テレビの取材陣が自宅を訪れ、
長男が怒鳴りつける事態が発生。
8月19日、行きつけの銀座のバーに直弟子と
一部関係者が集合、家族に連れられて談志が来店。
体調は芳しくなかったが、どうしても行きたいということで
解熱剤を処方されたのちにやって来ました。
すでに話すことはできなかったが、紙に書いた言葉で
一同を笑わせました。これが多くの直弟子にとっては
生前最後の対面となりました。
談志が退出後、弟子一同で今後のマスコミ対策を協議します。
自宅療養中に衰弱が進んだため、9月12日に再入院。
10月27日、昏睡状態に陥ります。この日を最後に
意識が回復することはなく、11月21日午後2時24分、
家族に看取られて喉頭癌のため死去。75歳。
東京都文京区浄心寺本郷さくら霊園に眠っています。
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