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シューベルトのお墓(11月19日が命日)

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シューベルトのお墓(11月19日が命日)

シューベルトのお墓(11月19日が命日)

2024/11/19

シューベルトのお墓(11月19日が命日)

 

フランツ・ペーター・シューベルト

(1797年1月31日 – 1828年11月19日)は、

オーストリアの作曲家。

晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、
重要な出来事が3つみられます。
1つ目は1826年、新しい交響曲を
ウィーン楽友協会に献呈し、その礼として
シューベルトに10ポンドが与えられたこと。
2つ目はオペラ指揮者募集に応募するため
オーディションに出かけ、リハーサルの際に
演奏曲目を自作曲へ変更するよう
楽団員たちに提案したが拒否され、
最終的に指揮者に採用されなかったこと。
そして3つ目は1828年3月26日(ベートーヴェンの命日)
に行われた、人生で初めてで生前唯一の、
彼自身の作品の演奏会です。

 

1827年に、シューベルトは歌曲集
『冬の旅』(作品89, D 911)や
ヴァイオリンとピアノのための
『幻想曲 ハ長調』(作品159, D 934)、
2つのピアノ三重奏曲
(第1番 変ロ長調 作品99, D 898、
第2番 変ホ長調 作品100, D 929)を書きました。

1827年3月26日、ベートーヴェンが死去。
ウィーン市民2万人の大葬列の中、
シューベルトは棺を担ぐ大任を負います。
その後、友人たちと酒場に行き、
「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」
と音頭をとりました。このとき友人たちは
一様に大変不吉な感じを覚えたそうです。
そして、彼の寿命はその翌年で尽きます。
生まれ故郷であるウィーンをほとんど離れることがなく、
生涯一度も海を見ることがなかったそうです。

 

最晩年の1828年、『ミサ曲第6番 変ホ長調』(D 950)、
同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ』(D 962)、
『弦楽五重奏曲 ハ長調』(D 956)、
『ミサ曲第4番』のための2度目の
『ベネディクトス』(D 961)、
最後の3つのピアノソナタ(第19番 ハ短調 D 958、
第20番 イ長調 D 959、第21番 変ロ長調 D 960)、
『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D 957/965A)を
完成させます。
この歌曲集の内の6曲はハインリヒ・ハイネの詩につけられます。
ハイネの名声を不動のものにした
詩集『歌の本』は1827年秋に出版されています。

シューベルトは対位法の理論家として
高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター
(のちにアントン・ブルックナーの師となる)の
レッスンを所望し、知人と一緒に
彼の門を叩いた。しかし何度かのレッスンのあと、
ゼヒターはその知人からシューベルトは重病と知らされます。


11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは
「僕は病気だ。11日間何も口にできず、
何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と
著しい体調不良を訴えました。
これがシューベルトの最後の手紙となりました。

その後、シューベルトは『冬の旅』などの校正を行いますが、
11月14日になると病状が悪化して
高熱に浮かされるようになり、
同月19日に兄フェルディナントの家で死去。31歳没。
フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、
死の前日に部屋の壁に手を当てて
「これが、僕の最期だ」と呟いたのが
最後の言葉でした。


遺体はシューベルトの意を酌んだ
フェルディナントの尽力により、
ヴェーリング街にあったヴェーリング墓地の、
ベートーヴェンの墓の隣に埋葬されました。
1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されますが、
ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には
今も2人の当時の墓石が残っています。

オーストリア・ウィーンの中央墓地に眠っています。
 

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