西太后のお墓(11月15日が命日)
2024/11/15
西太后のお墓(11月15日が命日)
西太后(せいたいこう、シータイホウ、
道光15年10月10日〈1835年11月29日〉-
光緒34年10月22日〈1908年11月15日〉)は、
清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。
清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)の
イェヘナラ(Yehe nala、葉赫那拉、エホナラ)氏の出身。
「西太后」とはもともと咸豊帝の第2夫人であった
「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称です。
皇帝との間に男子を産んだ西太后に対し、
東太后は皇帝の正室となったが男子(世継ぎ)を
産むことがかないませんでした。
それでも儒教の論理や明の洪武帝の祖法の
しきたりにより東太后は次期皇帝の
嫡母となることが決められており、
西太后自身は生涯において
皇后になることは出来ませんでした。
咸豊帝崩御に伴い同治帝が即位すると、
皇后は皇太后として「東太后」となり、
同治帝を産んだ生母も皇太后となり
「西太后」と呼ばれるようになりました。
西太后は権力欲が強くて嫉妬深く、
かつてのライバルであった咸豊帝の側室が
産んだ子は全て早くに死亡しています。
前述の麗妃は咸豊帝の唯一の娘
栄安固倫公主を生んだが公主は19才で若くして死亡した、
当人は咸豊帝の没後も後宮で余命を保ち、
死後清東陵にある咸豊帝の定陵の妃園寝
(菩陀峪定東陵と言われる側室達の墓)に葬られています。
なお栄安固倫公主は咸豊帝の唯一の娘として、
東太后にかわいがられ、妃の所生の娘であるが
皇后の娘に与えられる固倫公主を授けられています。
また、西太后は恭親王奕訢の娘を
人質として養女とし宮中で育て
栄寿固倫公主としました。
中華人民共和国 唐山市 清東陵に眠ります。
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