中原中也のお墓(10月22日が命日)
2024/10/22
中原中也のお墓(10月22日が命日)
中原 中也(なかはら ちゅうや、1907年〈明治40年〉4月29日 -
1937年〈昭和12年〉10月22日)は、
日本の詩人・歌人・翻訳家。旧姓は柏村(かしむら)。
代々開業医である名家の長男として生まれ、
跡取りとして医者になることを期待されていました。
小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、
8歳の時、弟が風邪により病死したことで文学に目覚めます。
中也は30歳の若さで死去しますが、
生涯で350篇以上の詩を残しました。
その一部は、結婚の翌年刊行した第1詩集『山羊の歌』
および中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』に
収録されています。
訳詩では『ランボオ詩集』や、
数は少ないがアンドレ・ジイドの作品など
フランス人小説家の翻訳もしています。
日本大学予科、中央大学予科などを経て
東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科仏語部修了。
1937年1月9日、母フクは中也を
千葉市千葉寺町の道修山(山ではなく丘)にある
中村古峡療養所に入院させます
(療養所は「中村古峡記念病院」として現存)。
ここで作業療法や日誌を書く指導を受け、
2月15日帰宅。騙されて入院させられたと妻・孝子に
言って暴れたため、またフクが呼ばれました。
文也を思い出させる東京を離れ鎌倉町扇ガ谷の
寿福寺境内にあった借家へと転居します。
5月、『文學界』に「愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません」ではじまる『春日狂想』を発表。
7月、小林秀雄や三好達治ら友人たちの間で
第二詩集出版の話が持ち上がります。
しかし中也は心身を休めるため
山口への帰郷を考えていました。
9月、左手中指の痛みを訴え痛風と診断されます。
9月15日、野田書房より訳詩集
『ランボオ詩集』が刊行され、売れ行きは上々でした。
23日、『在りし日の歌』の原稿清書を終え、
翌日小林秀雄に渡しています。
夏ごろから崩していた体調がさらに悪化、
10月4日に横浜の安原喜弘を訪ねた時は、
頭痛や電線が2つに見える視力障害を訴えました。
歩行困難もありステッキをついて歩きました。
5日に鎌倉駅前の広場で倒れ、翌日鎌倉養生院
(現・徳洲会清川病院)に入院[16]。脳腫瘍が疑われ、
その後急性脳膜炎と診断されます
(今日では、結核性の脳膜炎とされている)。
15日、フクと思郎が駆けつけたときは
既に意識は混濁していた。明治大学で教えていた小林は
1週間休講にして病室に詰めました。
河上徹太郎は毎日東京から病院に通いました。
22日午前0時10分、鎌倉養生院で永眠。
苦しむことなく安らかな死でした。
通夜は22、23日と2日にわたって自宅で行われ、
24日に寿福寺本堂での告別式を経て、
逗子町小坪の誠行社で荼毘に付された。
葬儀からほぼ1ヶ月後、
遺骨は『一つのメルヘン』で歌われた
山口県山口市の吉敷川近くの経塚墓地に葬られました。
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