石坂洋次郎のお墓(10月7日が命日)
2024/10/07
石坂洋次郎のお墓(10月7日が命日)
石坂 洋次郎(いしざか ようじろう、1900年〈明治33年〉1月15日-
1986年〈昭和61年〉10月7日)は、日本の小説家。
青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。
『若い人』で文壇に登場。戦後は新聞小説に活躍。
『青い山脈』をはじめとする青春物で、
国民的な人気を博した。数多くの作品が映像化されています。
還暦を超えてなお人気作を量産していたが、
1971年にうら夫人が亡くなったことがきっかけで
執筆意欲を失いだし、当時連載していた作品を最後に
執筆活動から遠ざかり、以後は自身の旧作の改訂や回顧録、
随筆などを時折記す悠々自適の生活に入ります。
1976年に朝日新聞へ隔週連載された「老いらくの記」は
往年の読者を中心に反響を呼び、健在ぶりを示します。
翌1977年には戦時中に執筆しながら連載途中で中絶していた
フィリピン従軍記「マヨンの煙」に未発表原稿を加え、
綿密な校訂を経て出版。30余年ぶりに陽の目を浴びました。
1978年頃から認知症の症状が徐々に出始め、
1980年ごろには徘徊や親族の顔の認識すら出来ない
状態になっていました。
さらには肥満が原因による心臓肥大や高血圧の症状など
体調は悪化の一途を辿り、1982年には医師から余命半年の宣告が下ります。
それを受けて、せめて僅かな月日を穏やかに過ごさせたいという
家族の想いから、長年住み慣れた田園調布の地を離れ、
伊東市へ転居します。
移転費用や生活費は自宅の売却や印税収入で賄い、
家族に金銭的な面倒は掛けたくないとする
健康だった頃の本人の意思に沿う形となりました。
転居後は体調も安定し、時折詩を書くなど、
家族の想いをまさに汲んだように穏やかな月日を送ります。
1986年に老衰(硬膜下出血)のため伊東市の自宅で死去。
死の直前には「これでよし」と呟いた、
自他共に納得の大往生でした。
戒名は一乗院隆誉洋潤居士。墓所は多磨霊園にあります。
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