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東海林太郎のお墓(10月4日が命日)

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東海林太郎のお墓(10月4日が命日)

東海林太郎のお墓(10月4日が命日)

2024/10/04

東海林太郎のお墓(10月4日が命日)

 

東海林 太郎(しょうじ たろう、1898年(明治31年)12月11日 -
 1972年(昭和47年)10月4日)は、秋田県秋田市出身の流行歌手。
戦前から戦後にかけて活躍し、ロイド眼鏡をかけて
燕尾服を着用して直立不動の姿勢で歌う特徴がありました。

音楽の夢を捨てられずに満洲から帰国した太郎は、
歌手の基礎となる声楽を下八川圭祐に師事し、
時事新報社主催の「第2回音楽コンクール」の声楽部門で
「我恨まず」(ロベルト・シューマン)、
仮面舞踏会からのアリア「レナートの詠唱」を独唱して入賞を果たします。
 その後は流行歌手へ転向し、ニットーレコードでの
「宇治茶摘唄」の吹き込みが流行歌の
レコードとして最初のものとなりました。


1933年(昭和8年)にプロとして
大日本雄辯會講談社レコード部と専属契約を結び、
「河原月夜」「山は夕焼け」などを吹き込んだほか
放送オペラにも出演して「椿姫」では
ロイド眼鏡をかけている風貌から医師の役を演じます。

その後も東海林の勢いは留まることを知らず、
日本ポリドール蓄音機株式会社で吹き込んだ
「赤城の子守唄」が1934年(昭和9年)2月に
新譜で発売されると空前の大ヒットとなり、
さらに同年には「国境の町」もヒットするなど、
東海林は流行歌手としての地位を不動のものとしました。
そのままポリドールと専属契約を結んでからは、
澄んだバリトンを活かして「むらさき小唄」「名月赤城山」
「麦と兵隊」「旅笠道中」「野崎小唄」
「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡を
次々に世へ送り出して戦前の歌謡界を席巻、
東海林太郎時代を到来させます。


また東海林は、「谷間のともしび」などの
外国民謡においても豊かな歌唱力を示しました。
第二次世界大戦開戦後はテイチクへ移籍するが
依然として勢いが衰えることは無く、
「贅沢は敵だ」という日本国内のスローガンを掲げて
戦時色が濃くなっていく中でも
「あゝ草枕幾度ぞ」「琵琶湖哀歌」
「戦友の遺骨を抱いて」などのヒット曲を吹き込んでいます。

 

東海林の歌唱スタイルは燕尾服を着用して
直立不動の状態であるが、
このスタイルは剣豪・宮本武蔵を彷彿させるとしています。
「一唱民楽」という言葉の如く「歌は民のため」
という信念を持っており、常に真剣勝負という気持ちで
歌唱する東海林の魂は
激動の昭和を生き抜いた精神を表しています。
 東海林は宮本武蔵の「一剣護民」という言葉を愛し、
武蔵の剣を彼にとっての歌に例えて、
「一唱民樂」という造語を使用しています。
 また、彼は生前、「マイク1本、四方が私の道場です。
大劇場であろうとキャバレーの舞台であろうと、
変わりありません」と述べていました。

 

1972年(昭和47年)9月26日14時30分頃、
東京・立川市内の知人宅に滞在していた際に
調子の悪そうな歩き方を見せる東海林を心配した
マネージャーから
「調子が悪いのではないか」と問われ、
「自分の身体は自分が一番よく知っている。眠たいだけだよ」
と返答して横になるが、そのまま意識不明の重体に陥いります。
翌日には立川中央病院に緊急入院し、
次男と妹の手を握りながら数人のファンに見守られ、
同年10月4日8時50分、脳内出血によって死去。73歳没。
没日付で正五位に叙せられ、勲三等瑞宝章を授与されます。
葬儀は史上初めての「音楽葬」でした。
墓所は秋田市西船寺。
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