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河井継之助のお墓(10月1日が命日)

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河井継之助のお墓(10月1日が命日)

河井継之助のお墓(10月1日が命日)

2024/10/01

河井継之助のお墓(10月1日が命日)

 

河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、
文政10年1月1日(1827年1月27日) -
 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、
江戸時代末期(幕末)の武士。
越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、
読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は
「つぎのすけ」とするが、
死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としています。
諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。

長岡藩は表高7万4,000石の小藩でしたが、
内高は約14万石と実態は中藩でした。
長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、
官軍に恭順を主張していた世襲家老首座の稲垣茂光は
交戦状態となる直前に出奔。
世襲家老次座の山本義路や着座家の三間氏は終始継之助に協力しました。
先法三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、
官軍への開戦前には恭順を主張するも
開戦決定後は藩命に従いました。
上級家臣のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、
継之助は名実共に開戦の全権を掌握しました。
継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督でした。


北越戊辰戦争において長岡藩兵は
近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、
継之助の巧みな用兵により開戦当初では
新政府軍の大軍と互角に戦いました。
しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、
5月19日(7月8日)に長岡城を奪われます。
この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と
米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生。
5月20日(7月9日)に発生した吉田村・太田村(現在の燕市)を始め、
巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となりました。
長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して
6月26日(8月14日)までに全て鎮圧します。
これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、
人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、
結果的に新政府軍に有利に働くことになります。
継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、
領民の一揆による抵抗による国力と作戦好機の逸失でした。
また、多くの領民が処刑され
長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなりました。
その後、6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じます。


7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく
八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還しました。

外山修造の証言によると、奇襲作戦の最中、
新町口にて河井継之助は左膝に
流れ弾を受け重傷を負ってしまいます。
『長岡郷土史』によると、新町口ではないところで
床机に腰掛けていたところを西軍兵に狙撃されました。
指揮官である継之助の負傷によって
長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、
また陸路から進軍していた米沢藩兵らも
途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまいます。
これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を
米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという
作戦は完遂できませんでした。
一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍でしたが、
すぐさま体勢を立て直し反撃に出ます。
長岡藩には最早この新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、
4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、
継之助らは会津へ向けて落ちのびました。

 

重傷の継之助は1人で歩けず、
会津へ向けて八十里峠を越える際、
「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。
峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとります。
継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た
松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげます。
しかし、この時既に継之助の傷は破傷風により
手遅れな状態でした。
継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、
花輪らに対し今後は米沢藩ではなく出羽庄内藩と
行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命
(結局果たされず)など後図を託しました。
また外山修造には武士に取り上げようと考えていましたが、
近く身分制度がなくなる時代が来るから
これからは商人になれと伝えました。
後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、
日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍します。

継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、
8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着します。

 

塩沢村では不安定な容態が続きます。
15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、
ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じます。
翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、
ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥り、
同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去します。享年41。
なお、継之助終焉の場所である矢澤家は
昭和36年(1961年)、只見川電源開発に伴いダム湖に
水没する地にあったため、
現在は福島県只見町の河井継之助記念館内に移築されています。

継之助は新潟県長岡市の栄涼寺に眠っています。

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