白瀬矗のお墓(9月4日が命日)
2024/09/04
白瀬矗のお墓(9月4日が命日)
白瀬 矗(しらせ のぶ、1861年7月20日(文久元年6月13日)-
1946年(昭和21年)9月4日)は、日本の陸軍軍人、南極探検家。
最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)。
明治44年(1911年)2月8日に、ニュージーランドのウェリントン港に入港。
物資を積み込み、2月11日、南極に向けて出港しますが、
すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて
船が立往生する危険が増したため、5月1日、シドニーに入港します。
ここで、資金調達のために、書記長の多田と船長の野村が帰国しますが、
後援会内部では村上濁浪が会費を使い込んだという疑惑が起きて内紛が発生。
一方、シドニーで滞在していた本隊でも内紛が発生しており、
隊員による白瀬の毒殺未遂事件が起きます。
その後、探検用の樺太犬を連れてシドニーに戻った多田を加えた隊は、
表面上は和解して再び南極を目指して、明治44年(1911年)11月19日に出港。
明治45年(1912年)1月16日、南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と命名します。
同地は上陸、探検に不向きであったため、再び開南丸でロス棚氷・クジラ湾に向かった。
クジラ湾内では、南極点初到達から帰還するロアール・アムンセンの探検隊を
収容するために来航していた「フラム号」と遭遇、限られた形ながら接触します。
その後、クジラ湾より再上陸し、同年1月20日、極地に向け出発。
この時点では南極点到達は断念し、南極の学術調査とともに領土を確保することを目的とします。
同年1月28日、帰路の食料を考え、南緯80度5分・西経156度37分地点一帯を
「大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)」と命名して、
隊員全員で万歳三唱、同地に「南極探検同情者芳名簿」を埋め、
日章旗を掲げて「日本の領土として占領する」と先占による領有を宣言します。
この領有宣言は、アーネスト・シャクルトンにならって行われました。
なお、この地点は棚氷であり、領有可能な陸地ではないことが後に判明します。
帰国後、後援会が資金を遊興飲食費に充てていたことが判明し、
白瀬は4万円(現在の1億5千万円)の借金を背負い、
隊員の給料すら支払えませんでした。自宅、家財道具、
軍服と軍刀を売却して、転居を重ね、実写フィルムを抱えて娘と共に、
台湾、満洲、朝鮮半島を含む日本各地を講演して回り、
20年をかけて借金の弁済に努めました。
昭和11年(1936年)、東京科学博物館(現・国立科学博物館)で
「南極の科学」展が開かれ、白瀬はそこで講演を行いました。
昭和12年(1938年)、国から「大隈湾」「開南湾」の命名に対して感謝状が贈られます。
昭和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の、
白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去した。享年85。
死因は腸閉塞でした。床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ2つ、
ナス数個、乾きうどん1把が供えられた祭壇を、弔問する人は多くはありませんでした。
近隣住民のほとんどが、白瀬が住んでいることを知らなかったそうです。
愛知県吉良町・西林寺に眠ります。
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