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岡倉天心のお墓(8月2日が命日)

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岡倉天心のお墓(8月2日が命日)

岡倉天心のお墓(8月2日が命日)

2024/09/02

岡倉天心のお墓(8月2日が命日)

 

岡倉 天心(おかくら てんしん、

文久2年12月26日〈1863年2月14日〉 - 
大正2年〈1913年〉9月2日)は、日本の思想家、文人。
本名は岡倉 覚三(おかくら かくぞう)。幼名は岡倉 角蔵(読み同じ)。

横浜の本町5丁目(現在の同市中区本町1丁目、横浜開港記念会館付近)
で生まれます。福井藩出身の武家で、1871年に家族で東京に移転。
東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の設立に大きく貢献し、
後年に日本美術院を創設しました。


近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、
美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長
といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における
日本美術概念の成立に寄与しました。
「天心」は岡倉が詩作などの際に用いた号ですが、
生前には「岡倉天心」と呼ばれることはほとんどなく、
本人はアメリカでも本名の岡倉 覚三(Okakura Kakuzo)で通しました。

 

1913年(大正2年)、ボストンに歌劇場ができることを聞き、
葛の葉を題材としたオペラ「白狐」を書き、
アメリカでの支援者のひとりであるイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館の
ガードナー夫人に贈りました。
その作曲は親交のあったチャールズ・マーティン・レフラーに委ねられたが、
作曲の筆が遅く、結局完成されなかったため、
岡倉とレフラーの関係は気まずい状態となります。


その後、自らの死が近いことを感じ、妻・基子の隠居所を東京・田端に建設、
妻の反対で延びていた長男・一雄の結婚披露宴を開きます。
若い画家たちの支援のために原富太郎(三溪)とともに
「観山会」を組織。9月2日、静養に訪れていた新潟県赤倉温泉の自身の山荘にて
50歳で永眠しました。慢性腎炎に尿毒症を併発していたとされます。
同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られます。
戒名は釈天心。墓所は豊島区駒込の染井墓地。
遺言により分骨され五浦にも岡倉の墓があります。

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