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阿部正弘のお墓(8月6日が命日)

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阿部正弘のお墓(8月6日が命日)

阿部正弘のお墓(8月6日が命日)

2024/08/06

阿部正弘のお墓(8月6日が命日)

 

阿部 正弘(あべ まさひろ)は、江戸時代末期の備後国福山藩の第7代藩主。
江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行しました。
阿部宗家第11代当主。

 

安政3年(1856年)10月、正弘は外交問題の専管の権力を堀田に全て移譲。
その上でタウンゼント・ハリスの江戸城登城問題については反対の立場をとりながらも、
基本的に外交問題に対しては余り口を挟まないようにしていた阿部。
安政4年(1857年)2月に伊達宗城がハリスの登城問題について正弘と対談して尋ねた際、
「卓乎確然たる返答」も無く、宗城は正弘との対談を「無益」に感じたそうです。
ただ、この頃から正弘の体調が良く無かったため、
このような対応をとっていたのではないかとする説があります。
医師によると、積年の心労により正弘の体調は悪化し、
そんな中でも江戸城に登城を続けていました。
だが、血色は良く無く、「御不快」ということでもないという状態だったといいます。
4月20日に玉川上水の羽村あたりで久世広周や内藤信親と馬で遠乗りし、
羽村陣屋あたりで鮎の塩焼きと酒を楽しんで過ごしたという。
この際は「草臥」れた様子もなかったが、同行した医師によると遠乗りをしたら
普通は赤らむ正弘の顔がむしろ青く見えて、
近習ですら正弘の体調の異変を感じ出したといいます。
5月8日に正弘は発熱し、登城できなくなります。


5月18日から再度登城を開始し、この頃までには体調を回復します。
しかし、この頃から胸に痛みを覚え出し、閏5月になると本格的に体調を崩しだします。
閏5月1日に登城した松平慶永が正弘を見て、「昔日の容貌に非ず。病、いと重」と記録しています。
閏5月3日に正弘と慶永が今生の別れとなる対面をしていますが、
「定各一と通りの御応答」しかできなかったという。閏5月8日、正弘は今度は腹痛を発し、
これ自体は回復したが、閏5月13日には登城を控えました。
医師は胸痛と腹痛から疝癪と診断し、将軍の家定は病気療養を最優先して
登城を控えることを許可する内意を与えます。
これにより、正弘は養生に専念して登城を控えました。

正弘の存在は幕府にとって大きかったため、6月からは多くの医師が診断したという。
ある医師は蘭薬、すなわち西洋医術を勧めたが、正弘は拒否したという逸話が伝わっています。
結局、多くの医師に診断されながらも正弘の容態は回復しませんでした。
6月10日に茄子、刺身を食したが、その後に嘔吐します。
ただ、6月15日までは容態は何とか安定していました。
しかし6月15日の夜から容態が急変し、6月16日に動悸が激しくなります。
記録によると「以の外の御容体」「御急変」とあります。
6月17日(8月6日)の朝になっても容態は変わらず、
記録によると「御呼吸御切迫」となり、それから程なく急死したという。享年39(満37歳8か月)。
福山藩の家督は、正弘の男子が全て夭折していたこともあり、
甥(兄・正寧の子)で養子の正教が継ぎました。

 

東京都台東区の谷中霊園に眠ります。

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