大原麗子のお墓(8月3日が命日)
2024/08/03
大原麗子のお墓(8月3日が命日)
大原 麗子(おおはら れいこ、1946年〈昭和21年〉11月13日 - 2009年〈平成21年〉8月3日)は、
日本の女優。本名:飯塚 麗子(いいづか れいこ)。身長157cm。
老舗和菓子屋の経営者を父として、東京都文京区で誕生。
潤徳女子中学校、北豊島高等学校卒業。
六本木野獣会に属し、大野伴睦の長男で東京放映の社長である大野直にスカウトされ芸能界入り。
中尾ミエ主演の東宝映画『夢で逢いましょ』(1962年)にも端役で出演していましたが、
1964年(昭和39年)、テレビドラマ『幸福試験』(NHK)の出演でデビューし、
翌年、東映へ入社。佐久間良子主演の『孤独の賭け』で初めて本格的な映画に出演。
同時期入社の城野ゆきと共に東映東京の一押し新人女優として売り出され、
1966年(昭和41年)高倉健主演のゴールデンウイーク映画
『網走番外地 荒野の対決』で人気が出始めたことから、
梅宮辰夫・緑魔子コンビによる「夜の青春シリーズ」第7作『赤い夜光虫』で
男優一押し新人・谷隼人とコンビで準主役に格上げされました。
その後も「夜の青春シリーズ」をはじめ、高倉健の『網走番外地』シリーズ、
千葉真一主演作品での助演等、数々の映画に出演しましたが、
この時期の東映は"不良性感度映画"を推進していたため、
大原の役は酒場のホステスやパンスケ役が多いのでした。
1971年に東映との契約切れを機に渡辺プロダクションに移籍。
ただ、1972年2月14日に東京プリンスホテルであった渡瀬恒彦との婚約発表を伝える
『スポーツニッポン』1972年2月15日の記事に
「東映の渡瀬恒彦と同じく東映女優の大原麗子」と書かれており、
同席した岡田茂東映社長が「二人とも我が社の看板スターです。
今後ともよろしく」と報道陣に話しました。
晩年は活動休止中も現場復帰に向けて、自宅でリハビリと筋力トレーニングに励んでいた大原。
晩年は母親の介護や自身の病気療養もあって、公の場に姿を見せる機会はめっきり減っていきますが、
俳優仲間にはたびたび電話をかけ、ドラマを観た感想などを語っていたそうです。
2008年末に「しっかり病気を治して、容姿も心も完全に女優に変身して復帰したい。
いえ、必ず復帰するわ。そうね復帰はどんな形がいいかしら。やっぱりテレビドラマよね。
山田太一先生が脚本を書いてくれると嬉しいんだけどな。
それまでは、たとえ目の前に1億円積まれてもお断り。
だって大切なファンを裏切ってしまうことになるでしょうから」と語りました。
2009年8月6日、連絡が取れず不審に思って警察に通報していた実弟らによって、
自宅で死亡しているのが発見されます。62歳。行政解剖の結果、
死亡推定日時は同年8月3日。死因は不整脈による脳内出血であると診断されました。
8月23日、東京の青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、
森光子、石井ふく子、浅丘ルリ子らが発起人となり、
元夫である渡瀬恒彦や森進一のほか、八千草薫、池内淳子、徳光和夫、加藤和也、
堺正章、井上順、松原智恵子、音無美紀子、浅野ゆう子、中村雅俊らが参列。
大原が実の姉のように慕っていた浅丘は弔辞を述べ、「浅丘が骨折した大原を見舞いに訪れると、
大原が早く会いに来てほしかったと抱きついて怒りながら号泣していたこと」を明かしました。
また高倉健は、参列こそしなかったものの、11月に墓参に訪れ墓所を掃除し、
30分以上故人に語りかけていたことが2010年8月に報じられた。
その後も親族に定期的に線香を贈り、墓参を継続していたそうです。
墓所は東京都世田谷区の妙壽寺。戒名は「花香院麗風妙舞大姉」。
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