人見絹枝のお墓(8月2日が命日)
2024/08/02
人見絹枝のお墓(8月2日が命日)
人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1931年〈昭和6年〉8月2日)は、
日本の陸上競技選手、ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。
100m、200m、走幅跳の元世界記録保持者。(100m、200mについては非公認)
岡山県御津郡福浜村(現:岡山市南区)出身。
1928年アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、
女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーしました。
(走幅跳は採用されず、事実上100m一本に絞っていた)
7月30日、100m予選は1着で通過したものの、
同日準決勝は12秒8で4着となり決勝進出を逃します。
8月1日、800m予選を2分26秒2で通過する。8月2日、800m決勝は2分17秒6で
ドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、
日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となりました。
8月5日、走高跳の予選に出場するも1m40で予選落ちとなります。
1931年(昭和6年)3月6日に病臥に伏し、大阪・十三から尼崎市塚口へ引っ越します。
3月25日に早朝から喀血し、肋膜炎で
大阪帝国大学付属病院(現・大阪大学医学部附属病院)小沢内科に入院します。
担当医は岡山出身で、妻は岡山高女の出身であったことから手厚い医療を受けることができました。
人見の病室には「軽井直子」という名札が掛けられます。
5月31日に見舞いに訪れた二階堂トクヨは一目見て大病であることを見抜き、
涙を流し、看護人・藤村蝶に50円を手渡した。その後に世間の煩わしさから避けるため、
別館2階へ病室を移された[11]。7月中旬には肺炎を併発し、
見舞いに訪れた織田幹雄は変わり果てた姿に絶句したといいます。
7月29日、病室を本館に移し、入院してから初めて「苦しい」、「家に帰りたい」と弱音を吐きました。
8月1日18時過ぎに病状が急変し、8月2日午後0時25分、乾酪性肺炎により死去。24歳没。
辞世の詩は、「息も脈も高し されど わが治療の意気さらに高し」。
アムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょうど3年後の日でした。
危篤の報を聞き駆けつけた両親は娘の死に目に間に合わず、
大阪に向かう途中の姫路駅のラジオ放送で死を知ります。
師・二階堂トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、
絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『婦人公論』に寄せています。
8月3日、遺体は阿倍野斎場(大阪市営南斎場)にて火葬され、
8月5日に大阪毎日新聞社による、神式の告別式が行われました。
式には1,000人超の参列者が訪れ、国際女子スポーツ連盟のアリス・ミリアをはじめ
世界中から弔電が寄せられました。
8月12日には人見家の菩提寺である妙法寺で仏式の葬儀が営まれ千数百人が参列した。
法号は「妙法 高徳院妙聲日宏大姉」。付きっきりの看病をしていた
藤村家の墓所(青森県八戸市の本覚寺)に骨塔があります。
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