千代の富士のお墓(7月31日が命日)
2024/07/31
千代の富士のお墓(7月31日が命日)
千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年(昭和30年)6月1日 -
2016年(平成28年)7月31日)は、北海道松前郡福島町出身で九重部屋に所属した大相撲力士。
本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。
第58代横綱。昭和最後の大横綱。
位階は従四位。血液型はA型。
「オリンピック選手でもいける」と言われるほどだったが相撲は大嫌いだったそうです。
幼少期から体格は同級生より頭一つ大きく、
食卓に並んだホッケや鮭などの魚類で体を作っていました。
中学1年生の時に盲腸炎の手術を受けたが、腹の筋肉が厚いために手こずり、
予定を大幅に上回る長時間の手術となり、終了直前に麻酔が切れました。
それでも必死に耐え続ける体格の良い貢を見た病院長が
千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎(当時、九重部屋北海道後援会世話人)に連絡します。
そこから角界への道が開がっていきます。
2015年11月20日夜に北の湖ががんによる多臓器不全のため死去した際は、
翌11月21日に出演したNHKの大相撲中継番組で、1981年1月場所に北の湖を下して
幕内初優勝を達成した優勝決定戦のVTRを見て「自分が本当に勝ったのか…という状態だった」と述懐。
さらに、「きのう病院に運ばれたことは聞いていたが、その何時間後にまさか…」
「自分たちの世代は全員(横綱北の湖は)大きな壁で大きな目標だった。
それを超えないと何にもならない。そういう意味で偉大な人だった」と
目を涙で潤ませながら語り、急死した北の湖を悼んだそうです。
2016年に入ってからがんが再発。胃や肺などに転移しており、鹿児島県などで放射線治療などを
受け続けていました。2016年3月場所のころからは急激にやせ細ります。
2016年7月場所では名古屋市内の九重部屋宿舎でやせた姿で弟子の指導に当たりますが、
同場所4日目の7月13日からは体調不良を訴え休場し、帰京して入院していました。
7月場所3日目には監察の部屋で「きついなあ、きついよ」と言って机に突っ伏しており、
同じ監察委員として九重親方の側にいた武蔵川(元横綱・武蔵丸)は
「そんなこと言う人じゃなかったから、びっくりした」と語っています。
2016年7月31日17時11分、膵臓がんのため、東京大学医学部附属病院で死去。61歳没。
次女の秋元梢が同日夜に、「最期は苦しむ事なく、
家族全員に看取られて、息を引き取りました」と報告しました。
同月6日には通夜、7日には葬儀・告別式が九重部屋で営まれた。
弟弟子である八角理事長や読売ジャイアンツ前監督(当時)の原辰徳、
歌手の細川たかしら約1000人が参列しました。また、交友のあった阪神タイガース二軍監督(当時)の掛布雅之や
1989年に国民栄誉賞授与を決めた当時の内閣総理大臣である海部俊樹らから弔電が寄せられます。
戒名は「千久院殿金剛貢力優梢禪大居士」
(せんきゅういんでんこんごうこうりきゆうしょうぜんだいこじ)。
10月1日には「第58代横綱千代の富士 お別れ会」が国技館で行われ、
故人と親交のあった関係者約1500人が参列、
一般ファンによる献花には約3500人が長蛇の列をつくり故人を偲びました。
弔辞を読んだ友人の松山千春は、故人の半生を描いたドラマ『千代の富士物語』
(1991年・1992年にフジテレビにて製作・放送)の主題歌で自身の楽曲「燃える涙」を熱唱、
最後に「千代の富士〜!」と絶叫して追悼しました。
東京都台東区の王林寺に墓所があります。
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