橋本真也のお墓(7月11日が命日)
2024/07/11
橋本真也のお墓(7月11日が命日)
橋本 真也(はしもと しんや、1965年7月3日 - 2005年7月11日)は、
日本の男性プロレスラー。岐阜県土岐市出身。血液型AB型。
海外修行から帰国後、闘魂三銃士として武藤や蝶野と共に売り出されることになり、
対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなります。
また古舘伊知郎からは「戦う渡辺徹」の異名をもらっています。
「破壊王」ほど定着しなかったが、橋本はこのニックネームを気に入っていたそうです。
この時期の橋本はベイダー、スコット・ノートン、トニー・ホームといった
巨漢外国人レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開していました。
橋本は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級でありますが、
この階級のレスラーが得意技にすることが多いラリアットやパワーボムをほとんど使用せず、
あんこ型でありながらキック主体というスタイルでした。
1993年(平成5年)、橋本は前年にIWGPヘビー級王座を獲得したグレート・ムタや
G1 CLIMAX2連覇を果たした蝶野と比べ停滞気味でしたが、
WARの天龍源一郎と2度のシングルマッチを経て勢いを付けると、9月20日にはそのムタを破り、
第14代IWGPヘビー級王者となります。
その後、藤波に敗れてIWGPヘビー級王座を一度は手放すものの、
直後の5月1日福岡ドームのメインイベントで藤波を破って王者に返り咲きました。
これ以降、1年後の1995年(平成7年)5月3日福岡ドームで武藤に敗れるまで
9度の当時連続防衛記録を達成。
その年の活躍が認められ、「プロレス大賞MVP」を獲得しました。
2004年8月31日、岩手県営体育館にて大谷&大森に敗れ、
藤原喜明と組んで保持していたNWAインターコンチネンタルタッグ王座から陥落。
この試合を最後に故障などがあって長期欠場に入るが、この後に団体の経営方針等、
諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し、
負債は全て橋本が自ら被ることで決着がつきました。
1人でフリーの道を歩むことなった橋本は、長い間治療せず放置していた右肩を手術し
リハビリをしながらリングへの復帰を目指していました。
ところが2005年(平成17年)7月11日午前8時頃、
横浜市内の滞在先において脳幹出血を発症し救急搬送されます。
午前10時36分に搬送先の横浜市立大学附属市民総合医療センターで橋本の死亡が確認されました。
40歳没。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されています。
7月16日に行われた橋本の葬儀には、武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて大勢のレスラー、
各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列しました。
特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤と蝶野が受けた衝撃は最も大きく、
武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、
蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。棺が霊柩車に運ばれた際、
友人でもあるKBCアナウンサーの高島宗一郎(当時、現福岡市長)の涙声の絶叫に続き、
出棺時に橋本の入場曲でもある『爆勝宣言』が流され、
参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、
橋本の遺体は久保山斎場で火葬されました。
旧ZERO-ONEで橋本と苦楽を共にした大谷も棺桶を担ぐ役から外されていたことを無念に感じ、
葬儀場の出入り口付近で悔しさを噛み殺していたそうです。
戒名は「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」でした。
破壊王は岐阜県土岐市の嶋香寺徳風霊苑に眠ります。
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