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水原弘のお墓(7月5日が命日)

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水原弘のお墓(7月5日が命日)

水原弘のお墓(7月5日が命日)

2024/07/05

水原弘のお墓(7月5日が命日)

 

水原 弘(みずはら ひろし、1935年(昭和10年)11月1日 - 
1978年(昭和53年)7月5日)は、日本の歌手・俳優。
愛称は「おミズ」。

東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)出身。
東京都立赤坂高等学校商業科卒業。

1959年(昭和34年)、東京芝浦電気(現・東芝)の
音楽レコード事業部の東芝レコードから
「黒い花びら」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)でレコード・デビュー。
夏木陽介主演の東宝映画『青春を賭けろ』に歌手役で出演。
「黒い花びら」は発売初年に30万枚、
総合計57万枚という当時としては大ヒット作となりました。
ちなみに最初のマネージャーは渡邊美佐の妹、曲直瀬信子でした。

またこの年から始まった第1回日本レコード大賞を「黒い花びら」で受賞。
新人デビュー年の大賞受賞は現在においても水原が唯一である。
また第10回NHK紅白歌合戦に初出場。
その後も3年連続で紅白に出場を果たし、
独特の甘い“低音”で一世を風靡した。
そして20代の女性たちに多大な人気がありました。

 

1977年(昭和52年)1月12日、巡業先の金沢市で体調不良を訴え緊急入院。
すでにアルコール依存症からくる影響で肝臓は正常に機能しなくなっており、
黄疸や腹水の症状も起こしていました。
新宿の朝日生命成人病研究所附属病院に2月末まで入院加療し、
一旦退院するも同年6月末まで自宅静養に専念します。
同年7月から仕事に復帰したものの、
アルコール性の急性肝炎から慢性肝炎に移行、
肝硬変を発症しており、度々極度の貧血などの症状で倒れるなど、
もはや極めて深刻な状況を迎えていました。
医師から「このままの生活を続けたら1年以内の命」と
警告されるも、莫大な借金返済のため、
金融業者は満身創痍の水原を、ときにランクの低い歌手より安いギャラでも、
「馬車馬のように」全国を営業させたそうです。
それでも水原は、酒を手放すことはありませんでした。
医師から飲酒を厳しく禁じられるも、
水原はストレスに耐えかね、「これぐらいなら」と
ワインを隠れて飲んでいたそうです。

この最晩年期、服用していた薬の副作用で顔に吹き出物が目立つようになり、
それを隠すように口髭をたくわえ始めていました。


1978年(昭和53年)6月24日未明、北九州市小倉北区の宿泊先「ホテルニュー田川
(現・アートホテル小倉ニュータガワ)」の客室トイレで大量に吐血し、
瀕死の状態だったところをホテルで食事をとっていて遅れた
マネージャー美山淳に発見されます。
同市戸畑区の健和総合病院(現・戸畑けんわ病院)に救急搬送されるも、
既に血液の1/3が失われていました。
その後一時は意識が回復し、憔悴する美山に「馬鹿野郎、俺は死なねーよ」と
話しかけるなど小康状態を見せましたが、既に内臓のあちこちから出血がみられ、
実質的には手がつけられない状況でした。
それでも水原は歌を諦めず、再度「奇跡のカムバック」を目指していました。

だが水原の願いは届かぬまま、再び意識不明の重体に陥り、
吐血から11日後の同年7月5日未明、
同院で肝硬変の重症化による食道静脈瘤破裂のため死去。
42歳没。残った借金は当時の額で9000万円とも言われます。
水原弘の墓は、東京都港区の専福寺にある。墓には「高和家之墓」とあり、
左側面に墓誌が刻む。戒名は「刻音院釋正弘居士」。

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