キュリー夫人のお墓(7月4日が命日)
2024/07/04
キュリー夫人のお墓(7月4日が命日)
マリア・サロメア・スクウォドフスカ=キュリー( 1867年11月7日 - 1934年7月4日)は、
現在のポーランド(ポーランド立憲王国)出身の物理学者・化学者。
フランス語名はマリ・キュリー(Marie Curie、ファーストネームは日本語ではマリーともいう)。
キュリー夫人 (Madame Curie) として有名です。
1867年11月7日、ワルシャワ生まれ。
放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し、
パリ大学初の女性教授職に就任しました。
1909年、アンリ・ド・ロチルド(1872-1946年)からキュリー研究所を与えられました。
放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案によります。
1932年、転倒したマリは右手首を骨折しますが、その負傷がなかなか癒えませんでした。
頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が続きます。1933年には胆石が見つかったが手術を嫌がります。
春にマリはポーランドを訪問しますが、これが最後の里帰りとなりました。
1934年5月、気分が優れず研究所を早く後にしました。そのまま寝込むようになったマリは検査を受け、
結核の疑いがあるという診断が下ります。
療養に入ることを決め、エーヴはマリをフランス東部のオート=サヴォワ県パッシーにある
サンセルモス(英語版)というサナトリウムへ行きます。
しかしここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた医師が行った
血液検査の結果は、再生不良性貧血でした。
7月4日水曜日の夜明け前、マリはサンセルモスで逝去。7月6日に夫同様近親者や友人たちだけが
参列した葬儀が行われ、マリは、夫ピエールが眠るソーの墓地に、夫と並んで埋葬されました。
長期間の放射線被曝による再生不良性貧血が死因であると考えられています。
放射線の危険性は当時は知られていなかったため、その後開発された放射線防護策はとられていませんでした。
マリは放射性同位体を含む試験管をポケットに入れて運んでいました。
キュリー夫人は 放射線を扱う作業による再生不良性貧血で68歳で亡くなりました。
これは、骨髄が体が適切に機能するのに十分な
新しい血球を生成しない場合に発生する、まれな血液疾患です。
彼女が亡くなったとき、彼女の体は非常に放射能を帯びていたため、
鉛で裏打ちされた棺に入れられなければなりませんでした。 しかし、このことは
1995年に彼女の棺が発掘されるまで知られていませんでした。
当時、フランス政府はキュリー夫妻の科学への多大な貢献を讃え、
フランスの歴史の象徴となるために、キュリー夫妻を国立霊廟である
パンテオンに移したいと考えていました。 発掘を担当するチームは残留放射線への懸念から
フランス放射線防護庁に連絡し、墓地の作業員を守るための支援を求めたといいます。
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