足利 義輝のお墓(6月17日が命日)
2024/06/17
足利 義輝のお墓(6月17日が命日)
足利 義輝(あしかが よしてる、1536年3月31日〈天文5年3月10日〉-
1565年6月17日〈永禄8年5月19日〉)は、室町幕府の第13代征夷大将軍
(在職:1547年1月11日〈天文15年12月20日〉 - 1565年6月17日〈永禄8年5月19日〉)。
初名は義藤(よしふじ)。
永禄8年(1565年)4月30日、三好重存が上洛すると、5月1日に義輝は重存と謁見し、
酒を与えて出仕を労います。その際、重存の求めによって、
義輝から重存に「義」の偏諱と左京大夫の官位が与えられ、重存は義重と名乗ります。
5月5日、端午の節句であるこの日、朝廷から将軍御所に勅使が下され、
義重も松永久通とともに御所に参上しています。
その後、5月18日までは京において平穏な状況が続きました。
公家の山科言継や勧修寺晴右の日記などを見ても、ただ事実が淡々と記載されているのみです。
他方、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』では、同日に義輝が危険を感じて二条御所を出たものの、
近臣らに説得されて戻った、と記されています。
5月19日、義重は三好三人衆や久通とともに、清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率い、
突如として二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと訴え、取次ぎを求めて御所に侵入しました(永禄の変)。
二条御所の完成間近を狙った攻撃であり、 開戦は午前8時頃であったといいます。
三好軍が二条御所に侵入したのち、義輝は劣勢であることを悟り、死を覚悟します。
そして、義輝は最後の酒宴を行い、近臣らに酒を与えて、皆で別れの酒を酌み交わします。
この際、三好氏との取次であった進士晴舎が御所への侵入を許したことを詫びて、義輝の御前で自害しました。
その後、義輝と近臣らは三好軍に立ち向かい、突撃して斬り込みます。
やがて、近臣らは皆討ち死にし、午後11時頃に義輝もついに力尽き、
三好の兵に討たれます。享年30(満29歳没)。
山口市の俊龍寺に供養墓があります。
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