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伊能 忠敬のお墓(5月17日が命日)

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伊能 忠敬のお墓(5月17日が命日)

伊能 忠敬のお墓(5月17日が命日)

2024/05/17

伊能 忠敬のお墓(5月17日が命日)

 

伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日〈1745年2月11日〉- 文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)は、
江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。
通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量、73歳で死去。
その後は弟子たちが遺志を受け継いで『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにしました。
1883年(明治16年)、贈正四位。

 

測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業に取りかかります。
文化14年(1817年)には、間宮林蔵が、忠敬が測量していなかった蝦夷地の測量データを持って現れます。
また同年、忠敬は破門していた平山郡蔵を許し、作業に参加させました。
地図の作成作業は、当初は文化14年の暮れには終わらせる予定でしたが、この計画は大幅に遅れます。
これは、忠敬が地図投影法の理論を詳しく知らなかったため、各地域の地図を1枚に合わせるときにうまくつながらず、
その修正に手間取ったためと考えられています。


忠敬は新しい投影法について研究し、資料を作り始めました。しかし文化14年秋頃から喘息がひどくなり、
病床につくようになりました。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、
門弟の質問に返事を書いたりしていましたが、文政元年(1818年)になると急に体が衰えるようになります。
そして4月13日、弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えました。

忠敬は死の直前、「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、
死んだあとは先生のそばで眠りたい」と語りました。
そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく東京上野・源空寺にあります。
また千葉県・佐原の観福寺にも遺髪を納めた参り墓があります。


 

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