武田信玄のお墓(5月13日が命日)
2024/05/13
武田信玄のお墓(5月13日が命日)
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、
甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏第19代当主。武田氏の第16代当主。
諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。
表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。
甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男。
先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、
信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻します。
その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ
信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領しました。
次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没します。
信玄は軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、
2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れます。
信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は停止。
このため、信玄は長篠城において療養していましたが、近習・一門衆の合議にて
4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなります。
元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は死去。享年53。
臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば三州街道上の
信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされていますが、
浪合や根羽とする説もある。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。
辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿しています。
駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、
甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて、
信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録があります。
このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられています。
菩提寺の甲州市の恵林寺をはじめ。各地に墓所が建てられています。
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