萩原朔太郎のお墓(5月11日が命日)
2024/05/11
萩原朔太郎のお墓(5月11日が命日)
萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日)は、
日本の詩人、評論家。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称されます。
1934年(昭和9年)に詩集『氷島』を刊行。
同年7月に明治大学文芸科講師となり、詩の講義を担当するようになります。
1935年(昭和10年)4月『純正詩論』、10月『絶望の逃走』、11月には『猫町』を刊行。
自らが発起人となって伊東静雄の出版記念会を行います。
1936年(昭和11年)3月『郷愁の詩人与謝蕪村』、5月随筆論評集『廊下と室房』を刊行。
前年に雑誌『文学界』に連載した「詩壇時評」により、第八回文学界賞を受ける。
10月に「詩歌懇和会」が設立されると役員となりました。
1937年(昭和12年)に上毛新聞主宰の「萩原朔太郎歓迎座談会」に出席し帰郷。
3月『詩人の使命』、8月『無からの抗争』を刊行。「透谷会」の創立発起人となり、
9月に「透谷文学賞」が設立されると、島崎藤村・戸川秋骨・武者小路実篤と共に選考委員に就任。
この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになります。
1938年(昭和13年)1月「新日本文化の会」の機関紙『新日本』を創刊。
3月に『日本への回帰』を発表して日本主義を主張し、一部から国粋主義者と批判されます。
雑誌『日本』に「詩の鑑賞」を執筆。4月、大谷美津子と結婚するも入籍せず。
1939年(昭和14年)にパノンの会(正式名・詩の研究講義の会)を結成。9月『宿命』を刊行。
1940年(昭和15年)に『帰郷者』(第四回透谷文学賞受章)、『港にて』を刊行し、10月『阿帯』を刊行します。
この頃から身体に変調を感じ始め、1942年(昭和17年)4月末付で明治大学講師を辞任。
同年5月11日に急性肺炎で世田谷の自宅にて55歳で死去。
墓所は前橋市榎町政淳寺にあります。法名は光英院釈文昭居士。
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