寺山修司のお墓(5月4日が命日)
2024/05/04
寺山修司のお墓(5月4日が命日)
寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年〈昭和10年〉12月10日 -
1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日本の歌人・劇作家。
演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ「天井桟敷」主宰。
「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名をとり、
上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表しました。
競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどでした。
1980年(昭和55年)7月13日午後10時ごろ、渋谷区宇田川町で取材中、
アパート敷地に住居侵入した容疑で警視庁渋谷警察署に逮捕。
アパート経営者の息子は「5年ほど前もしばしばこのアパート付近をうろつき、
一度は警察ざたになったこともあったため、また来たと思って警察に届けた」とのこと。
容疑を認めた寺山は2日後に釈放され、住居侵入罪で略式起訴され8000円の罰金刑を受けた
(この時の身元引受人は矢崎泰久であった)。
『毎日新聞』は
「寺山修司が『のぞき』アパート侵入、つかまる。罰金で釈放」、
『読売新聞』は
「寺山修司が″のぞき″女性アパートで二度も 突き出され罰金」と報じます。
このスキャンダルにより、寺山の一切の仕事は無期延期とされましたが、
寺山は「市街における訪問劇『ノック』の上演地をリサーチしていた中の敷地内立ち入りであり、
覗きの現行犯ではない」旨の反論を『週刊朝日』に書きます。
渋谷署副署長の清水清七も「ノゾキのノの字も、広報簿には載せていません」と発言しています。
1981年(昭和56年)、肝硬変の再発で再入院。
1982年(昭和57年)、朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行い、
『奴婢訓』を上演。年末には、最後の演出作品となった「 レミング―壁抜け男―」を紀伊國屋ホールにて上演。
1983年(昭和58年)、東京都港区三田に在住中に肝硬変を発症し阿佐ヶ谷の河北総合病院に入院後、
腹膜炎を併発し、5月4日に敗血症のため死去、47歳没。葬儀委員長は谷川俊太郎。
東京都・八王子の高尾霊園に眠ります。
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