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永井 荷風のお墓(4月30日が命日)

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永井 荷風のお墓(4月30日が命日)

永井 荷風のお墓(4月30日が命日)

2024/04/30

永井 荷風のお墓(4月30日が命日)

 

永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 -

1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。
本名は永井 壯吉(ながい そうきち)。
号に金阜山人(きんぷさんじん)、断腸亭(だんちょうてい)ほか。
日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
東京市小石川区(現在の文京区)出身。


父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸りました。
父は荷風を実業家にするために渡米させるが、

荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、
同時代のフランス文学を身につけ帰国します。
明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、
江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、
以後は、江戸期の戯作者的な態度を装った生涯を貫きました。

 

1952年、「温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる
多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、
わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した」との理由で文化勲章を受章する。
翌年日本芸術院会員に選ばれるなど名誉に包まれました。
その一方では相変わらず浅草へ通い、フランスやアメリカの映画を繁く見ていました。
創作活動は衰えてはいるが、それでもいくつかの短編が書かれたり、
旧作の『あぢさゐ』が久保田万太郎の脚色で、新派の花柳章太郎により演じられるなど話題を集めました。
1954年、恩師森鷗外の三十三回忌として、団子坂観潮楼跡に荷風揮毫による
『沙羅の木』の碑文が建てられます。この時荷風は記念館造営のため五万円寄付します。

 

1957年(78歳)、八幡町四丁目(現:八幡三丁目)に転居、これが彼の終の棲家となりました。
1959年3月1日、長年通い続けた浅草アリゾナで昼食中、
「病魔歩行殆困難」(日乗)となる。その後は自宅に近い食堂大黒屋で食事をとる以外は家に引きこもり、
病気に苦しむ荷風を見かねた知人が医者を紹介しても全く取り合わなかったそうです。

東京都の雑司ヶ谷霊園にお墓があります。

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