マーヴィン・ゲイのお墓(4月1日が命日)
2024/04/01
マーヴィン・ゲイのお墓(4月1日が命日)
マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye、1939年4月2日 - 1984年4月1日)は、
アメリカ合衆国のミュージシャン、作曲家。
2010年発表の「ローリング・ストーンの選んだ
歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第18位。
首都ワシントンD.C.にて、ペンテコステ派の説教師であった
父マーヴィン・シニアと母アルバータ(旧姓クーパー)のもとに生まれます。
出生名はマーヴィン・ペンツ・ゲイ・ジュニア(Marvin Pentz Gay, Jr.)。
地元の教会で聖歌隊に参加したことがシンガーとしての第一歩です。
歌と同時にピアノやドラムといった、いくつかの楽器の演奏技術も習得し、
音楽の下地を養います。しかし、音楽に没頭するきっかけは、
厳格な父による躾の範囲を越えた精神的虐待でした。
これが後の彼の人生にトラウマとして遺ることとなります。
モータウンに雇われた当初はドラマーとしても活動しており、
同レーベルの優れたスタジオ・ミュージシャンとの親交を深めました。
この経験はミュージシャンを効果的に起用することで、
その技術を最大限に引き出す手法として生かされていくこととなります。
特にベーシストであるジェームス・ジェマーソンは彼の作品に大きな貢献を果たし、
数々の作品を生み出すこととなります。
やがて、ソロシンガーとしていくつかの作品を出すうちに、少しずつシングルの売上も伸び始め、
また社長の実の姉であるアンナと結婚したことも弾みとなってか「悲しいうわさ」、
「キャン・アイ・ゲット・ア・ウィットネス」、「プライド・アンド・ジョイ」
「ハウ・スウィート・イット・イズ」「アイル・ビー・ドゴーン」などのヒット曲を生み出します。
ナット・キング・コールの洗練とゴスペルの影響を受けた
サム・クックやジャッキー・ウィルソンの力強さを兼ねそろえた彼の資質は、
モータウン所属の歌手の中でも、高い人気を得ることとなりました。
1971年1月、シングル「ホワッツ・ゴーイン・オン」を発表。
この曲の成功を受けて、同年5月に同名のアルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』を発表します。
華麗で美しい楽曲と隙のない緻密なアレンジによる音楽性は絶賛を受け、
シングル・カットされた「マーシー・マーシー・ミー」もヒットを記録。
音楽以上に人々に衝撃を与えたのは、このアルバムがベトナム戦争や公害、
貧困といった社会問題を取り上げた歌詞と、それに対する苦悩を
赤裸々に表現したマーヴィンの歌唱でした。
当時、シングル盤が中心であった黒人音楽の世界に、一つのテーマ、
特に社会情勢などを元にしたコンセプト・アルバムを制作することは画期的なことでした。
またこのアルバムの内容についてモータウンは消極的な態度でしたが、
マーヴィン自身がセルフ・プロデュースという制作体制で望んだことも注目を集めます。
自分の感じたままのことを干渉されずに作品にまとめ上げるという
セルフ・プロデュースの姿勢は、同世代に活躍した黒人ミュージシャンに大きな影響を与えました。
マーヴィンの行動に触発されたダニー・ハサウェイやスティーヴィー・ワンダー、
カーティス・メイフィールドなどのアーティストが、より自分の才能で個人的世界を音楽に反映し、
意欲的で充実した作品を生み出すことになりました。
彼らの音楽は「ニュー・ソウル」と呼ばれます。
また、ニュー・ソウルは80年代のアレクサンダー・オニールら
次世代の黒人アーティストにも受け継がれていきました。
1984年4月1日の12時半頃、自宅で両親の喧嘩を仲裁した際に
父マーヴィン・シニアと口論になり、激昂した父が拳銃を発砲、
至近距離から放たれた2発の弾がそれぞれ胸部と肩に命中し、病院に運ばれる前に死亡。
その日はマーヴィンの45回目の誕生日の前日でした。
また、父が使用した拳銃は生前に息子からプレゼントされたものでした。
4月5日には自宅前でマーヴィンの告別式が行われ、
モータウン時代の盟友を含め1万人以上の人々が参列しました。
マーヴィンは火葬され、太平洋の海に散骨されました。
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