志村けんのお墓(3月29日が命日)
2024/03/29
志村けんのお墓(3月29日が命日)
志村 けん(しむら けん、1950年〈昭和25年〉2月20日 -
2020年〈令和2年〉3月29日)は、日本のコメディアン、俳優。
ザ・ドリフターズのメンバー。
東村山市名誉市民。
1973年までの芸名の表記は「志村 健」。
ドリフでの初期には「志村 ケン」名義での表記もあった。
本名は志村 康徳(しむら やすのり)で、構成作家としては本名名義でクレジットされました。
2020年3月、当時パンデミック初期であった
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎で死去(後述)。
生前は渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに属し、
死去したザ・ドリフターズのメンバーのいかりや長介や仲本工事と同様、
没後も籍を残しています。
1968年2月、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願します。
由利徹、コント55号、ドリフのいずれに弟子入りするか迷ったが、
音楽性の面からドリフを選びます(高校2年時に由利徹を訪ねて弟子入りを志願したが、
大学に行ったら気が変わると言われ断られている、
これがきっかけで高卒で芸能界に入ることを決心します)
雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも門前払いされたが、
それでも食い下がったため根性を買われ、「ボーヤ(付き人)」が辞めて
メンバーに欠員が出たらという条件で仮採用されました。
いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語っています。
お笑いコンビ『マックボンボン』解消後に志村はドリフの付き人に戻ったが、
戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、
「志村けん」に改名した上でドリフに加入します。
当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。
1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日にドリフの正式メンバーに昇格しました。
この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入、
及びすわしんじの昇格も検討していましたが、志村の順番であったことと、
加藤の推薦により若手の志村が起用されました。当時、志村は24歳でした。
当時、メンバーから東村山の田舎者扱いされていた志村は意地になって
稽古中に東村山音頭を歌っていたところ、それが受けて舞台で試すこととなりました。
初出は1976年3月6日の新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、
新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、
その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向でした。
そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、
制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、
さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、
この3曲を本番でまとめて歌ったところ
「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、
ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、
特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせます。
志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与します。
いかりやがツッコミであるドリフでは大ボケを担当することが多いが、
マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』で
いかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、
いかりやの代役としてツッコミを担当したこともあります。
『全員集合』の後半コントなどでも、女性歌手や加藤をボケに立て、
自身がツッコミに回るコントもありました。
カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。
ビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回しました。
また、沢田研二とのコント内でのやり取り、息の合ったコンビネーションが人気を呼びます。
1979年には加藤茶との「ヒゲダンス」、
1980年には「♪カラスの勝手でしょ〜」(童謡『七つの子』の替え唄)が人気を博します。
1985年に『全員集合』が終了し、後番組として1986年に
『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート。加藤がボケで、志村がツッコミを担当します。
その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、
『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外
(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部〈1997年以降〉)との活動が多くなります。
この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、
第2の人気ピークとなるがこれ以降胃潰瘍に苦しみます。
1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが増えます。
また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、
第3の人気ピークを迎えます。ただし以前のピーク時とは異なり、
重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、
全盛時と比べれば露出度は穏やかなものとなります。
2020年2月22日、東京都内で開かれた誕生日パーティーで胃の切除手術を受けたことを告白。
その際に志村は詳細を語らず、胃癌だったのではないかと出席者から心配の声が出たものの、
所属事務所によると、健康診断でみつかったポリープ切除の
内視鏡手術で1月に4日間入院していたとのことで、
直接的に仕事に影響を及ぼすことはありませんでした。
2020年3月15日ごろから体調に異変が見られ始める。翌16日、『志村でナイト』の収録のため
フジテレビを訪れたものの体調不良から控室に入って30分で退出し帰宅。
翌17日、倦怠感が出始め、19日に発熱と呼吸困難の症状が現れます。
翌20日に医師による訪問診察で重度の肺炎と診断され、
東京都港区内の東京都済生会中央病院に緊急入院。
21日に人工呼吸器に切り替えた段階から意識はなく、
入院の際に新型コロナウイルスの検査を実施したところ、23日に陽性と判明します。
24日に人工心肺が必要と診断を受けて、新宿区の国立国際医療研究センター病院へ転院して
体外式膜型人工肺(エクモ「ECMO」)を装着。
入院時には肺に影も見られ、一時は気道を確保する気管挿管の処置も取られます。
また、同日には保健所による調査で、3月17日が発症日であることと濃厚接触者の特定が完了したが、
感染経路については不明とされまし。検査結果を受け、
同年12月公開予定だった自身初の主演映画『キネマの神様』のクランクインが延期となり、
3月26日、同作への出演を辞退したことを所属事務所が発表しました。
2020年3月29日23時10分、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に伴う肺炎のため、
国立国際医療研究センター病院で死去しました。70歳没。
東京都東村山市久米川町・梅岩寺に眠ります。
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