植木等のお墓(3月27日が命日)
2024/03/27
植木等のお墓(3月27日が命日)
植木 等(うえき ひとし、本名同じ、1927年〈昭和2年〉2月25日 -
2007年〈平成19年〉3月27日)は、日本の俳優、コメディアン、歌手、ギタリスト、タレント。
「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバー。
国民的スターとして人気を集めた1960年代、活躍の中心は
『植木等ショー』をはじめとするバラエティ番組や、
『無責任シリーズ』『日本一の男シリーズ』などの東宝映画でした。
高度経済成長時代を象徴するコメディアンとして
1960年代に一世を風靡し、ギャグも曲もヒットした。
映画に関しては、最初はスーダラ節の大ヒットを受けて
大映で2本の映画が作られましたが、こちらでの植木やクレージーキャッツは
主役の川崎敬三や川口浩に花を添える脇役・ゲスト出演であり、
植木に主役を演じさせたいと熱望する
渡辺プロダクション社長の渡辺晋が
自らの足で企画を持ち回った結果、東宝からゴー・サインが出されます。
そして作られた2部作『ニッポン無責任時代』『ニッポン無責任野郎』は、
「無責任」という流行語とともに当時社会現象となった。
この無責任男の破天荒なキャラクターについて、
植木は後年「『ニッポン無責任時代』の古澤憲吾監督にはまず“笑ってみろ”と言われて
何度も笑ってみたがOKが出ず、そのうち怒り出した監督から
“植木君、君が演じようとしているこの男は異常なんだよ!”
と言われ、それで吹っ切れてキャラが出来上がった」と回想しています。
その後、『ニッポン無責任時代』の初期の企画を立てた脚本家・田波靖男の
マンネリ化に対する危機感や、当時東宝の製作本部長だった藤本真澄の意向もあって、
植木が演じるキャラクターも無責任型から有言実行型のスーパー・サラリーマンへと
方針転換していくことになり、「『無責任』シリーズ」は
「『日本一の男』シリーズ」へと変化を遂げます。
一方、同時進行で製作されていたクレージーキャッツ全体を主人公とした
「『クレージー作戦』シリーズ」においては、田波自身が「無責任へのアンチテーゼ」とする
『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963年)も製作されました。
晩年は肺気腫と前立腺癌を患いながらも
テレビドラマや映画を中心に仕事を続けましたが、
2007年3月27日に呼吸不全のため東京都内の病院で死去。
80歳でした。法名「宝楽院釋等照」。
遺作は映画では2007年公開『舞妓Haaaan!!!』での西陣の会長・斉藤老人役、
テレビドラマでは2006年日本テレビ放送
『ひめゆり隊と同じ戦火を生きた少女の記録 最後のナイチンゲール』でした。
葬儀は植木の意思で身内だけの密葬として執り行われ、
クレージーキャッツの一員だった谷啓、犬塚弘、桜井センリや、
植木の付き人を経てコメディアンになった小松政夫も参列しました。
臨終の際、小松は植木の着物を着替えさせるなど、
付き人として最後の仕事を務めました。
本葬は、お別れの会という形で4月27日に東京都港区の青山葬儀所で
「植木等さん 夢をありがとう さよならの会」として執り行われ、2,000人が参列しました。
葬儀委員長は谷、犬塚、桜井の3人が共同で務め、弔辞は小松、加藤茶、すぎやまこういち、
松任谷由実、元内閣総理大臣・森喜朗らが読み上げ増した。
また、渡辺貞夫がサックスを演奏し、ミッキー・カーチスと内田裕也は弔辞の後、
松任谷を交えて祭壇の前で『スーダラ節』を即興で歌いました。
他には浜美枝、伊東四朗、水前寺清子、仲本工事、大山のぶ代、中山秀征、
吉田栄作、ケーシー高峰、大竹まこと、大橋巨泉、清水アキラ、
付き人だった島崎俊郎などが参列しました。
2007年5月14日には母校・東洋大学主催の「植木等さんとお別れする会」が行われ、
総長・塩川正十郎を始めとする300名の学校関係者が参列して植木を偲びました。
東京の小平霊園に植木等は眠ります。合掌=
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