田中絹代のお墓(3月21日が命日)
2024/03/21
田中絹代のお墓(3月21日が命日)
田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日)は、
日本の女優、映画監督。本名同じ。
黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、
日本映画史を代表する大女優の一人。
14歳で松竹に入社し、清純派スターとして人気を得て、
松竹の看板女優となりました。
戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し、
脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、
晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技で
ベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀主演女優賞)を受賞しました。
主な作品に『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』
『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。
また、映画監督としても6本の作品を残しています。
1950年代中頃に40代半ばを迎えたがその後も女優業に邁進し続け、
特に老婆役で優れた演技を見せるようになります。
主演作こそ少なくなるものの、成瀬監督の『流れる』、
家城巳代治監督の『異母兄弟』などに重要な役で出演。
1958年(昭和33年)公開の木下監督『楢山節考』では
自分の差し歯4本を役作りのために外して老婆を演じ、
キネマ旬報賞女優賞を受賞。
それ以降は脇役に回り、小津監督の『彼岸花』や
市川崑監督の『おとうと』などで母親役を好演。
1965年(昭和40年)、黒澤明監督の『赤ひげ』に出演した後、
パーキンソン病に罹った兄の看護に専念するため、
しばらくは仕事を断るようになります。
1968年に郷里・下関の赤間神宮で、「明治百年記念」と題して開催された先帝祭で
「禿(かむろ)」に扮し、同郷の女優・木暮実千代と共に特別出演しました。
1970年(昭和45年)、NHK大河ドラマの『樅ノ木は残った』に出演。
以降はテレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役や
連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれました。
1970年に紫綬褒章を受章。
1974年(昭和49年)、熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』で
元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞や
芸術選奨文部大臣賞などを受賞。
1975年3月、日本経済新聞の『私の履歴書』の欄に
田中の半生などが1ヵ月間に渡って掲載されました。
それまで神秘のベールに包まれてきた日本を代表する女優の半生が、
初めて本人の言葉で明かされ、読者から大きな反響を呼びました。
最晩年、借金を抱えて困窮していた田中の面倒は
唯一の親戚である小林正樹監督が看ていました。
1977年(昭和52年)1月12日に
強度の頭痛に襲われて順天堂病院に緊急入院し、
脳腫瘍と診断された数日後には視力を失います。
3月21日午後2時15分に脳腫瘍の悪化により死去。享年67。
入院中の田中は、見舞いに来た小林に
「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と言い、
女優復帰を願っていたが叶いませんでした。
遺作はテレビドラマ『前略おふくろ様』。生涯で約260本の映画に出演しました。
同年3月31日に築地本願寺で映画放送人葬が行われ、又従弟の小林正樹が喪主、
城戸四郎が葬儀委員長を務めました。
弔辞は日本監督協会理事長の五所平之助のほか高峰三枝子が行いました。
映画放送業界の約400人、ファン約3千人が参列し、
みな焼香台の上に100円玉を置いていったそうです。法名は迦陵院釋尼絹芳。
生前「死んだら、母の眠る下関で眠りたい」と希望していたことから、
墓所は下関市の下関中央霊園にあります。
また、1979年(昭和54年)の三回忌では小林正樹によって、
神奈川県鎌倉市の円覚寺にも墓が建立されて分骨されました。
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