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平清盛のお墓(3月20日が命日)

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平清盛のお墓(3月20日が命日)

平清盛のお墓(3月20日が命日)

2024/03/20

平清盛のお墓(3月20日が命日)

 

平 清盛(たいら の きよもり、旧字体: 平󠄁 淸盛󠄁)は、
平安時代末期の日本の武将、公卿、貴族、棟梁。
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となります。
保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、
武士としては初めて太政大臣に任じらます。
日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、
宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、
日本初の武家政権を打ち立てました(平氏政権)。

 

平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、
治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るも、
平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、
源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、病没しました。

治承5年(1181年)2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、
宗盛以下一族の武士が東国追討に向かうことが決められていましたが、
清盛は27日に病に倒れ、閏2月4日、
鴨川東岸にある盛国の屋敷(※後述)で死亡します。享年64。
死の直前、自分の死期を悟った清盛は、
自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、
宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、
恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残したとされます。

『平家物語』では清盛が死に臨んで
「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしています。

 

死亡した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、
宗盛は清盛の遺言として
「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」
と述べてこれを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示したそうです。
頼朝への恨みはとても深かったのでしょう。。

清盛のお墓は兵庫県神戸市・宝積山能福寺のほか、全国に点在します。

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