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長 三洲のお墓(3月13日が命日)

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長 三洲のお墓(3月13日が命日)

長 三洲のお墓(3月13日が命日)

2024/03/13

長 三洲のお墓(3月13日が命日)

 

長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年11月3日) - 
明治28年(1895年)3月13日)は、豊後国生まれの勤皇の志士、
官僚、漢学者、書家、漢詩人。諱は炗(ひかる)。
幼名は富太郎、のち光太郎、太郎。字は世章。
号は三洲(三州)のほか、蝶生、韻華、秋史、紅雪、楂客など。

 

幕末の頃は尊王攘夷の志士と交わり、国事に奔走します。
長州藩に身を寄せつつも、二豊(豊後、豊前)の
倒幕運動の中心人物として暗躍。
薩長同盟の立役者の一人でもあります。
戊辰戦争においては、仁和寺ノ宮嘉彰親王の越後口征討軍の参謀として、
西園寺公望、壬生基修、山県狂介らとともに従軍し、
その後、長岡、会津を転戦します。

 

戊辰戦争後は、山口藩議政局書記として明倫館御試仕法及び小学規則を制定の後、
掌吏に昇格し、長州兵の兵制改革に携わりますが、
この改革により奇兵隊脱隊騒動が勃発、木戸孝允らとともにこれを鎮圧します。
毛利元徳の薩摩行に随行後上京。
明治3年(1870年)10月、太政官権大史、制度局員となり、
江藤新平とともに、月2回の御前会議(国法会議)に出席し諸制度を起草します。
また、「新聞雑誌」発刊に携わり、静妙子名で「新封建論」を発表し、廃藩置県を主唱します。

明治5年(1872年)、大学少丞に任じられ、
学制五編を起草、同年8月に頒布された明治学制の中心的な起草者となります。
以後、文部大丞を任じられます。

 

その後、教部大丞を任じられると、西南学区巡視に赴き、
9か月近くかけて西日本の教育状況をつぶさに巡察して回りました
(大阪、京都、三重、奈良、滋賀、兵庫、広島、香川、愛媛、徳島、高知、
島根、鳥取、山口、福岡、日田、佐賀、熊本、天草、長崎、鹿児島、
日向、佐伯、府内(大分)、別府、高田)。
以後、文部省学務局長、侍読、宮内省の文字御用掛などを歴任。
明治12年(1879年)、46歳のとき、官を退いて文書画の道で余生を送りました。

石碑の揮毫も手がけており、現在全国に50基ほどを確認できます。

 

東京・多摩霊園に眠ります。

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