水野忠邦のお墓(3月12日が命日)
2024/03/12
水野忠邦のお墓(3月12日が命日)
水野 忠邦(みずの ただくに)は、日本の江戸時代後期の大名、
江戸幕府老中。肥前国唐津藩主、のち遠江国浜松藩主。天保の改革の指導者。
天保8年(1837年)4月に家慶が第12代将軍に就任し、
ついで1841年(天保12年)閏1月に大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免し、
遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、
後藤三右衛門を登用して天保の改革に着手します。
天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し
「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めます。
農村から多数農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、
農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく
奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして
株仲間の解散を命じる低物価政策を実施しましたが、
その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、
物価引下げとは相反する結果をもたらしました。
腹心の遠山は庶民を苦しめる政策に反対し、
これを緩和した事により庶民の人気を得、後に『遠山の金さん』として語り継がれます。
また、天保14年(1843年)9月に上知令を断行しようとして
大名・旗本の反対に遭うなどした上、
腹心の鳥居が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため、
閏9月13日に老中を罷免されて失脚しました。
弘化元年(1844年)5月、江戸城本丸が火災により焼失。
老中首座・土井利位はその再建費用としての諸大名からの献金を充分には
集められなかったことから将軍家慶の不興を買い、
6月21日に家慶は外国問題の紛糾などを理由に忠邦を老中首座に再任させます。
しかし昔日の面影は無く、重要な任務を与えられるわけでもなかったため、
御用部屋でもぼんやりとしている日々が多く、
目付の久須美祐雋の記録では
「木偶人御同様」(木偶の坊のようである)とされていました。
同年7月からは頭痛・下痢・腰痛・発熱などの病気を理由としてたびたび欠勤した後、
12月からは癪を理由として長期欠勤し、
老中を辞職する弘化2年(1845年)2月まで勤めを休みます。
その一方で天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしたりしています。
土井は自ら老中を辞任。鳥居は全ての役職を罷免されます。
しかし老中・阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、
忠邦に対しても天保改革時代の鳥居や後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚し、
弘化2年(1845年)9月、加増のうち1万石・本地のうち1万石、
合計2万石を没収されて5万石となり、
家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられた上、
まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられます。
10月末、鳥居と渋川はお預け、後藤は斬首となります。
なお、この転封に際して、水野氏は領民にした借金を返さないまま
山形へ行こうとしたために領民が怒り、大規模な一揆を起こします。
一揆は新領主の井上正春が調停して鎮めました。
嘉永4年(1851年)2月10日、死去。享年58(満56歳没)。
死後、5日で謹慎が解かれます。
墓所は茨城県結城市の旧万松寺跡にあります。
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