金子 みすゞのお墓(3月10日が命日)
2024/03/10
金子 みすゞのお墓(3月10日が命日)
金子 みすゞ(かねこ みすず、本名:金子 テル〈かねこ テル〉、
1903年〈明治36年〉4月11日 - 1930年〈昭和5年〉3月10日)は、
大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。
26歳で夭逝するまで約500編の詩を遺し増した。
没後半世紀はほぼ忘却されていましたが、
1980年代以降に脚光を浴び、再評価が進みました。
西條八十に激賞されたが早逝、幻の童謡詩人とされていたのです。
遺稿集が発掘され、出版(1984年)、深く優しい世界観が広く知られます。
代表作に「私と小鳥と鈴と」「大漁」など。
1923年(大正12年)、「金子みすゞ」というペンネームで童謡を書き始め、
雑誌『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』 に投稿します。
この年、これら 4 誌全ての 9 月号にみすゞの投稿した
5 編の作品が一斉に掲載されました。
以降みすゞは次々と作品を投稿。
雑誌『童話』を中心に 90 編 の作品を発表します。
『童話』においては、推薦 16 編、入選 24 編、
佳作 2 編の計 42 編が 掲載されました。
最後にみすゞが投稿し掲載された作品は
『愛誦』1929年(昭和4年)5月号の「夕顔」。
1923年(大正12年)『婦人画報』9月号に掲載された「おとむらひ」は、
翌年『現代抒情小曲選集』(西條八十編)におさめられました。
1926年(大正15年)には、みすゞは「童謡詩人会」への入会をみとめられ、
童謡詩人会編「日本童謡集」1926年版に「お魚」と「大漁」の詩が載りました。
童謡詩人会の会員は西條八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、
野口雨情、三木露風、若山牧水など。
女性では与謝野晶子と金子みすヾの二人だけでした。
1926年(大正15年)に叔父(義父)の経営する上山文英堂の番頭格で、
酒は飲めないが女癖のある芝居好きの宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうけます。
しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、
女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなります。
みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、
後ろめたさからか、みすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。
1927年(昭和2年)西條八十編『日本童謡集(上級用)小学生全集第48巻』
および1928年(昭和3年)光風館編輯所 著『作文新編 巻1』に「お魚」が収載されます。
1929年(昭和4年)東亜学芸協会 編『全日本詩集』には
「繭とお墓」(『愛誦』1927年(昭和2年)1月号が初出)が載ります。
1929年(昭和4年)、みすゞは「美しい町」「空のかあさま」「さみしい王女」と 題した
3冊の童謡集を二組制作し西條八十と正祐
(当時上山雅輔の名前で文藝春秋社の編集者をしていた)にそれぞれ託します。
1927年に夫からうつされた淋病を発病。
1928年には夫から創作や手紙のやり取りを禁じられる。
1929年頃には病状が悪化し床に臥せることが多くなる。
こうしたことなどから1930年(昭和5年)2月に
正式な離婚が決まります(手続き上は成立していない)。
みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、
夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、
娘の親権を強硬に要求。同年3月10日、
みすゞは服毒自殺を遂げ、享年28(数え年)、26年の短い生涯を閉じます。
上山雅輔は回想録「年記」に
「芥川龍之介の自殺が決定的な要因となった」と書いています。
遺書を3通残しており、そのうちの1通は元夫へ向けた
「あなたがふうちゃんをどうしても連れていきたいというのなら,それは仕方ありません。
でも,あなたがふうちゃんに与えられるものはお金であって,
心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。
だから,母ミチにあずけてほしいのです」
という娘の養育を母ミチに託すよう求めるものでした。法名は釈妙春信尼。
山口県長門市の遍照寺にみすゞは眠ります。合掌=
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