石坂まさをのお墓(3月9日が命日)
2024/03/09
石坂まさをのお墓(3月9日が命日)
石坂 まさを(いしざか まさを、本名:澤ノ井 龍二、1941年5月18日 -
2013年3月9日)は、日本の作詞家・作曲家。一般社団法人真世界宗教連合会元相談役。
東京都新宿区出身。父親の澤ノ井音次郎は、十数人の弟子を持つ看板業を営んでいました。
家業が繁盛し裕福になると女遊びに手を出し、正妻の他に8人の妾を持ち、
石坂自身も4番目の妾の婚外子でした。
しかし子に恵まれなかった音二郎の正妻・千恵の元で女手一つ愛情深く育てられ、
石坂もまた千恵への深い思慕で結ばれていました。
新宿区立四ツ谷第二中学校を卒業後、肺結核と闘いながら職を転々とします。
1968年(昭和43年)秋、作曲家の上条たけし宅にて藤圭子(阿部純子)と出会います。
藤の不遇な環境から強烈なシンパシーを感じ、
ドスの効いた声と人生の哀愁をにじませた退廃的な歌い方に圧倒され、
藤のデビュー一本に賭けることを決意、新宿区東大久保にある自宅に住み込ませ、
スパルタ特訓生活を開始します。
しかしその道のりは険しく東奔西走の営業活動の中ようやくデビューが決まっていましたが、
知り合ったRCA/ビクターの若手プロデューサー榎本襄に
藤圭子を引き合わせたところ同じく藤の才能に打たれた榎本に
「ぜひRCAでやらせて」と強く勧められ、
自ら東芝を退職し日本音楽放送・工藤宏との縁で工藤から280万円出資を受け、
藤プロダクションを設立。
工藤を社長に据え、沢ノ井千江兒名義から石坂まさをに改称し、
また石坂本人も役員として登記し、阿部純子の芸名を藤圭子と名付け
RCA/日本ビクターより9月「新宿の女」でデビュー。
藤に提供した楽曲の多くには自らの生い立ち、
人生観が強く投影され藤圭子の独特な声と歌唱と相まって
数々の記録的ヒットを樹立します。
1999年(平成11年)9月に新宿・西向天神社に「新宿の女」の歌碑を、
12月に新宿・花園神社に「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑を建立。
また同年、横浜・港の見える丘公園の「港が見える丘」歌碑建立に尽力
(作詞・作曲:東辰三にお世話になったこと、子息の作詞家:山上路夫と親友の関係)。
2013年(平成25年)3月6日、都内病院に緊急入院。
一時回復したため、本人が「11日には退院して仕事がしたい」と話していたが、
3月9日容態が急変。23時35分、肺炎のため逝去。
晩年は腎臓がんを患い、周囲に「五木ひろしにもう一度、作詞したい」と漏らすなど、
最期まで仕事に意欲的であった。71歳没。
また、同年の8月22日には藤も他界。
この翌日は関係者有志による『石坂まさをを偲ぶ会』が
都内の会場で開かれる予定日となっていたが、会は予定通り催されました。
藤圭子の才能を見出し、昭和のスターに育て上げた石坂まさを。
自らも作詞家としての地位を確立し、
1970年代に多くのヒット曲を世に送り出しました。
藤圭子に提供した一連のヒット曲に代表されるように、
人生の悲哀を歌った歌が多かったが、桜たま子の『東京娘』や
山川ユキの『新宿ダダ』といった異端曲も手がけている。
生来病弱で、平成に入ると糖尿病による網膜剥離で失明という
悲劇に見舞われながらも、作詞への情熱を失わなかった石坂まさをの墓は、
静岡県伊東市の妙法寺にある。
五輪塔の墓には「先祖代々之墓」とあり、右横に墓誌が建ちます。
戒名は「石泉院心悦日龍居士」。
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