菊池寛のお墓(3月6日が命日)
2024/03/06
菊池寛のお墓(3月6日が命日)
菊池 寛(きくち かん、旧字体:菊池 寬、1888年〈明治21年〉12月26日 -
1948年〈昭和23年〉3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリスト。
本名:菊池 寛(きくち ひろし)。実業家としても文藝春秋社を興し、
芥川賞、直木賞、菊池寛賞の創設に携わりました。帝国芸術院会員。
生家は高松藩の儒学者の家柄。幼少期より旺盛な読書家でした。
京大英文科卒。芥川龍之介などの『新思潮』に参加。
著作に『屋上の狂人』(1916年)、『父帰る』(1917年)などの戯曲のほか、
『忠直卿行状記』(1918年)、『藤十郎の恋』(1919年)(のち脚色)などの小説があります。
人生観や思想を基盤とした明快な主題を打ち出した、
いわゆるテーマ小説が特徴です。
『真珠夫人』(1920年)のヒット後は通俗小説で健筆を揮った。
終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下されます。
日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由でした。
寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。
いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤りました。
その年の暮れには横光利一が死去。
翌年1948年(昭和23年)1月、苦難を共にした、
元文藝春秋社専務の鈴木氏亨が急逝。
気力の衰えた寛は、2月に胃腸障害で寝込みます。
回復すると3月6日に近親者や主治医を雑司が谷の自宅に集め、
全快祝いを行ったが、好物の寿司などを食べたあと、
2階へ上がったとたん狭心症を起こし、午後9時15分、急死。享年59歳。
息子を呼ぶ「英樹、英樹」が最期の言葉でした。
告別式は音羽の護国寺で行われます。
葬儀委員長は久米正雄。参列者7千人の中には当時首相だった芦田均もいました。
家族が発見した寛の遺書が当日公表されました。
『私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。
多幸だつたと思ひます。死去に際し、
知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。
ただ国家の隆昌を祈るのみ。— 吉月吉日 菊池寛』
東京・多摩霊園に眠ります。
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