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本多 猪四郎のお墓(2月28日が命日)

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本多 猪四郎のお墓(2月28日が命日)

本多 猪四郎のお墓(2月28日が命日)

2024/02/28

本多 猪四郎のお墓(2月28日が命日)

 

本多 猪四郎(ほんだ いしろう)1911年〈明治44年〉5月7日 -
 1993年〈平成5年〉2月28日)は、日本の映画監督。
山形県東田川郡朝日村(現:鶴岡市)出身。
東宝特撮をはじめとする数多くの映画を演出しました。
亥年生まれの四男であったことから「猪四郎」と命名されたそうです。
名前の読みを「いのしろう」とした書が多く出版されており、
また本人もニックネームで「いのさん」「いのしろさん」などと
呼ばれることが多かったが、正しい読みは「いしろう」です。
その影響を受けたためか、海外の文献でも"Ishiro"と"Inoshiro"が混在しています。

 

1951年、本多が40歳の時にようやく『青い真珠』で劇映画を初監督。
『太平洋の鷲』以降円谷英二とのコンビで多くの特撮映画を監督しました。
1954年の『ゴジラ』は全米で大ヒットを記録したため、
一躍世界に名を知られる映画監督となりました。
本多自身も『ゴジラ』を監督していなければ
全く違う人生を歩んでいただろうとしています。

 

なお、『ゴジラ』では真夏の海上ロケを敢行したが、
巡視船の上で上半身裸となって撮影に挑んだため、
日焼けしすぎて背中に水ぶくれが出来てしまい、
後年もその名残の染みだらけであったといいます。

 

1957年の『地球防衛軍』はMGM配給、1959年の『美女と液体人間』、
1959年の『宇宙大戦争』、1961年の『モスラ』はコロムビア映画の配給、
1962年の『キングコング対ゴジラ』と
1967年の『キングコングの逆襲』はユニバーサル映画配給、
1965年の『怪獣大戦争』と1966年の
『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』は
ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ配給で全米公開されるなど、
担当した作品のほとんどが海外で公開されました。

 

なお、『キングコング対ゴジラ』では撮影中に
斜面を30メートルも滑落してしまったが、
負傷した腕を吊りながら撮影を続行したという。
しかしながら、プロデューサーの田中友幸からの評価は低く、
1962年の『妖星ゴラス』の際に、
「あなたの演出はおとなしすぎるという意見が多く、
この作品の監督を任せるについても強い抵抗があった。
その辺を十分に考えて返事をしてもらいたい。
どうしても、そういう演出が出来ないというなら断ってくれていい。
前々からそういう意見があって、私もそれには同感だ」
(本多猪四郎の日記より)と辞退を勧められたそうです。
そういう見方をされていたんですね、、

 

1971年に東宝を正式退社。円谷との縁から
『帰ってきたウルトラマン』や『ミラーマン』などの
円谷プロダクション製作によるテレビ作品の監督を務めます。
1975年の『メカゴジラの逆襲』を最後に監督作品はなく、
その後はゴルフ場で再会した黒澤明の勧めで『影武者』以降の黒澤の映画を
演出補佐として支えました。
その主な仕事は子役を含めた演技指導やリハーサルの代行です。

 

1990年の『夢』ではそれ以外にB班の監督や特殊効果面の指揮も務めていた。
70代を迎え助監督陣と大幅に年齢差が生じた黒澤の、
同世代の補佐役として非常に重宝されたそうです。
現場への貢献度から『影武者』では共同監督としての
クレジットを黒澤から打診されるも固辞しています。

 

『まあだだよ』の撮影終了後、風邪をこじらせ
1993年2月28日午後11時30分に呼吸不全のため、
東京都世田谷区の病院で死去(享年81歳)。
今は静岡県駿東郡の冨士霊園に眠ります。

 

東京の多摩霊園にお墓があった時には、
盟友・黒澤明のこのような言葉の墓碑があったそうです。
「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 
映画のために力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく
静かに一生を終えました 平成五年二月二十八日 黒澤明」。

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