赤木圭一郎のお墓(2月21日が命日)
2024/02/21
赤木圭一郎のお墓(2月21日が命日)
1958年(昭和33年)、日活第4期ニューフェイスとして日活へ入社。
石原裕次郎主演の『紅の翼』に本名の「赤塚親弘」名義で群衆の一人として
エキストラ出演し、これが映画デビュー作となりました。
その西洋的風貌や退廃的な雰囲気が
これまでの日本人俳優にはない個性として評判を呼び、
「トニー」の愛称で主人公の弟分や準主役級として出演するようになります。
この愛称は、1950年代から1960年代にかけて人気のあったハリウッドスター
トニー・カーティスにどことなく風貌が似ていたことが由来です。
1959年(昭和34年)『拳銃0号』で演じた
不良少年役が評判になった後、
鈴木清順監督の『素っ裸の年令』で初主演を果たします。
この映画で赤木の人気に手応えを感じた日活は、
『清水の暴れん坊』と『鉄火場の風』で
石原と共演させるとこれらの映画が評判となりました。
日活はさらに1960年1月から
赤木、石原、小林旭に和田浩治を加えた4人で
「ダイヤモンドライン」を結成させ、
それぞれ毎月1本ずつのペースで
彼らの主演映画を製作することにします。
その後、『拳銃無頼帖』シリーズなど20本以上の
無国籍アクション映画に主演し、日活のアクション俳優として
「タフガイ=石原裕次郎」「マイトガイ=小林旭」に続く「第三の男」と呼ばれます。
その風貌から「和製ジェームズ・ディーン」とも云われました。
また、『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年)では
少年時代からの憧れだったという船乗りを演じ、
「マドロス姿が最もさまになる日活俳優」とも評価されました。
1961年(昭和36年)2月14日12時20分頃、
石原裕次郎のケガにより代役となって
撮影に臨んだ映画『激流に生きる男』の
セット撮影中の昼休憩時に、
セールスマンが持ってきたゴーカートを
日活撮影所内で運転中、
咄嗟にブレーキとアクセルを踏み違え、
60 km/h以上のスピードで大道具倉庫の鉄扉に激突し、
東京都北多摩郡狛江町(現:狛江市)にある
慈恵医大病院に緊急搬送されます。
一時は意識が戻ったものの、2月20日になって再び昏睡状態に陥り、
2月21日午前7時50分、前頭骨亀裂骨折に伴う
硬膜下出血のため、21歳で死去します。
赤木の家族らと共に長門裕之も臨終に居合わせたそうです。
葬儀は杉並区永福にある大円寺にて2月23日の
午後2時より執り行われ、多くの芸能関係者など4,000人が参列しました。
<神奈川県鎌倉市に眠るトニー>
鎌倉 長勝寺の裏山には鎌倉材木座霊園に記念碑、
お墓は静岡県富士宮市の大石寺にあります。合掌=
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