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小林多喜二のお墓(2月20日が命日)

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小林多喜二のお墓(2月20日が命日)

小林多喜二のお墓(2月20日が命日)

2024/02/20

小林多喜二のお墓(2月20日が命日)

 

小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12月1日 -
 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の
代表的な小説家、共産主義者、社会主義者、政治運動家。
日本プロレタリア作家同盟書記長。日本共産党党員。

4歳のとき、一家で北海道の小樽に移住、
小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に学びます。
小樽で銀行に勤めてから、葉山嘉樹、ゴーリキーなどの作品を通じて
プロレタリア作家の自覚を持ち、小樽の労働運動にも関わり始めます。

 

1928年、共産党関係者大検挙(三・一五事件)の小樽を題材にした
『一九二八年三月十五日』をプロレタリア文学の機関誌「戦旗」に載せ、
翌年には『蟹工船』を発表して評価を得ます。
また、大農場の小作人と小樽の労働者の共同闘争を描いた
『不在地主』(1929年)が原因で銀行を解雇されます。
その後は投獄と保釈をくりかえし、
1931年、非合法の共産党に正式に入党。
しかし1933年、警察に逮捕・虐殺されました。29歳。

 

1933年2月20日、多喜二は日本共産青年同盟中央委員会に潜入していた
特別高等警察のスパイ三船留吉からの提案により、
赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、
共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れました。
その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた
特高警察が待機していた。多喜二はそこから逃走を図りますが、逮捕されます。

 

同日、中央区築地の同じ場所に所在する築地警察署内においての取調べについては、
今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した
「作家小林多喜二の死」という文章を手塚英孝が『小林多喜二』で紹介しています。
それによると、警視庁特高係長中川成夫(警部。のちに滝野川区長、東映取締役)
の指揮の下に多喜二を寒中丸裸にして、
まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとあります。
その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、
19時45分に多喜二の死亡が確認・記録されました。

 

<北海道に眠る>
北海道小樽市の奥沢墓地に
小林多喜二のお墓はあります。合掌=

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