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徳川綱吉のお墓(2月19日が命日)

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徳川綱吉のお墓(2月19日が命日)

徳川綱吉のお墓(2月19日が命日)

2024/02/18

徳川綱吉のお墓(2月19日が命日)

 

徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、上野・館林藩初代藩主、
江戸幕府の第5代将軍(在職:1680年 - 1709年)。
第3代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。
3代将軍・徳川家光の四男として正保3年(1646年)1月8日、
江戸城に生まれます。幼名は徳松(とくまつ)。

慶安4年(1651年)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに
賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し
家臣団を付けられる。同月には家光が死去し、
8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受けます。

 

承応2年(1653年)8月に家綱の右大臣昇進にあわせて2人の弟は元服し、
偏諱(「綱」の字)を受けて長松は綱重、徳松は「綱吉」とそれぞれ名乗りました。
同時に従四位下・左近衛権中将・右馬頭に叙任し、同年正三位叙位。

綱吉は堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後高田藩の
継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、

 

諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、
「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した将軍権威の向上に努めました。
また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、
有能な小身旗本の登用をねらいました。荻原重秀もここから登用されています。
外様大名からも一部幕閣への登用がみられます。

また、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進しました。
これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響しています
(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだった)。

 

綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、
また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として
湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍でした。
儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られ、
御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、
また大和国と河内国一帯の御陵を調査の上、
修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させました。
公家たちの所領についてもおおむね綱吉時代に倍増しています。

赤穂藩主浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも、
朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようです。

 

綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、
新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行らの
学者を輩出するきっかけにもなり、この時代に儒学が隆盛を極めます。

宝永元年(1704年)、6代将軍は甥(兄・綱重の子)で
甲府徳川家の綱豊(のちの家宣)に決定します。
綱吉は宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹により死去。享年64。

 

綱吉の治世下は、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった
文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから
優れた経済政策を執っていたという評価もあります。
また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだという説もあります。
前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、
享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま
「武家諸法度」として採用するなど、その施政には
綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されています。

 

<徳川家の菩提寺に眠る>
徳川綱吉は東京・上野の寛永寺に眠ります。

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