船村 徹のお墓(2月16日が命日)
2024/02/16
船村 徹のお墓(2月16日が命日)
ふなむら とおる、1932年〈昭和7年〉6月12日 - 2017年〈平成29年〉2月16日
1932年(昭和7年)~2017年(平成29年)
日本の作曲家、歌手。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長で
日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員。本名は福田 博郎(ふくだ ひろお)。
戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼります。
歌謡曲の作曲家として初めて文化勲章を受章しました。位階は従三位。
1932年(昭和7年)、栃木県塩谷郡船生村(現在の塩谷町)に生まれます。
父親がクラシックレコードの収集家であったことや、
小学校時代にブラスバンド部でトランペットを吹いていたことなどもあり、
音楽の道を志します。
旧制栃木県立今市中学校(現在の栃木県立今市高等学校)在学中は
音楽部の部長を務めていたことから、同級生に勧められて
1949年(昭和24年)に東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)ピアノ科に入学。
その後、声楽科に在籍していた高野公男と知り合い、二人で作品作りを精力的に始めます。
この頃、まだ駐留米軍が数多くいた時代であり、
船村は米軍キャンプ専門のバンドでリーダーを務めました。
大学在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲活動を開始。
ただ、高野とともに生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、
流しの歌手なども経験。キャバレーのボーイのアルバイトでは、
客の残したビールを洗面器に集め、2人でそれを飲んだこともあったといいます。
1953年(昭和28年)、雑誌「平凡」コンクール曲第一席
『たそがれのあの人』がレコード化され、作曲家としてデビュー。
その後も、キングレコードから『ご機嫌さんよ達者かね』『あの娘が泣いている波止場』
(共に三橋美智也の歌唱)などが連続ヒット。
1955年(昭和30年)、春日八郎が歌った『別れの一本杉』が大ヒット。
作曲家としての地位を決定づけます。
1956年(昭和31年)、コロムビアレコードから招かれて、
高野とともに移籍し専属となります。
コロムビア入社第1作『早く帰ってコ』はヒットとなったが、
高野は肺結核に侵され、9月8日に死去。
船村は友の死を乗り越えるかのように精力的に活躍し、
『どうせ拾った恋だもの』(初代コロムビア・ローズ)、『柿の木坂の家』(青木光一)、
『ダイナマイトが百五十屯』(小林旭)とヒットを連発。
1961年(昭和36年)には村田英雄の『王将』が戦後初のミリオンセラーを記録しました。
ヒット曲を出す一方、歌手の育成にも力を注ぎ、愛弟子には、北島三郎・鳥羽一郎・
大下八郎・香田晋・走裕介・森サカエ・森若里子などがいます。
特に、鳥羽・香田・走は船村宅に住み込み、寝食を共にした内弟子です。
1978年(昭和53年)、22年在籍したコロムビアを退社。
フリーの作曲家として活動を始めます。
同時に、歌作りの原点に立ち返るとして、演歌巡礼の旅を発想。
小さな街や刑務所を慰問し、全国を歌いながら回ります。
1993年(平成5年)、日本作曲家協会理事長に就任。
1995年(平成7年)、紫綬褒章を受章。
1997年(平成9年)、吉田正の後を受け、日本作曲家協会会長に就任。
2003年(平成15年)、旭日中綬章を受章。
2008年(平成20年)、文化功労者に選出。
2015年(平成27年)4月27日、栃木県日光市今市に
「日本こころのうたミュージアム・船村徹記念館」がオープン。
2016年(平成28年)、歌謡曲作曲家としては初めてとなる文化勲章を受章
(作曲家としては山田耕筰に次ぎ2番目)。
2017年(平成29年)2月16日午前11時頃、
神奈川県藤沢市の自邸の寝室で船村が床に座って
ベッドに顔を伏せていたところを長男の夫人が発見。
この時すでに心肺が停止していたとみられ、
搬送中に救急隊員が心肺蘇生を試みたが、
午後12時35分に心不全のため藤沢市内の病院で死去。享年84歳。
<ちあきなおみと美空ひばり>
船村の代表曲のひとつ『矢切の渡し』は
元々ちあきなおみに提供した楽曲でしたが、細川たかしが歌唱したものがヒットし、
第25回日本レコード大賞を受賞します。
これについて船村は「美声ではあるが細川君の歌い方は一本調子な感じで、
ちあき君は観賞用‥細部まできっちりと聴かせる歌だから。
正直に言うと細川盤は、楽曲の難しい部分を省略しているので
『何だ、これならオレにも歌える』と世間に思わせる歌い方でしたね。‥」と分析・評価しています。
美空ひばりに関しては「高音(裏声)に良いものを持っている」と評価しており、
実際に船村がひばりに提供した作品には、高音部分が多い
(母の喜美枝には「苦手だからやめて」と拒否されていた)。
また、ひばりとちあきを対比して
「美空ひばりとちあきなおみの決定的な違いは、裏声の出るか出ないか」とも講評しています。
<神奈川県藤沢市のお寺に眠る>
戦後を代表するヒットメーカーの一人、船村徹。
演歌を主旋律とした情感豊かなメロディーで数々のヒット曲を世に送り出し、
『別れの一本杉』『王将』『矢切の渡し』など、手がけた曲は5000曲以上にのぼります。
その中には、『夏子の季節』『ハイティーン・ゴーゴー』『スナッキーで踊ろう』
といった迷曲もいくつかあることを忘れてはならない。
北島三郎・鳥羽一郎といった歌手を育て上げ、
歌謡界初の文化勲章を受けた偉大な作曲家の墓は、
神奈川県藤沢市の泉蔵寺にあります。
洋形の墓には「楽 福田家」とあり、右側に墓誌が建ちます。
戒名は「鳳楽院酣絃徹謠大居士」。
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