新田次郎のお墓(2月15日が命日)
2024/02/15
新田次郎のお墓(2月15日が命日)
新田 次郎(にった じろう、本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)、
1912年6月6日 - 1980年2月15日)は、
日本の小説家、気象学者。
無線電信講習所(現在の電気通信大学)卒業。
中央気象台に勤めるかたわら執筆。
山を舞台に自然対人間をテーマとする、
山岳小説の分野を開拓しました。
『強力伝』(1955年)で直木賞受賞。作品に『孤高の人』(1969年)、
『八甲田山死の彷徨』(1971年)など。
初めての小説は、1942年から1945年の間に書かれたと思われる、
藤原廣の筆名の自伝小説『山羊』で原稿用紙7枚。
内容は、半生を振り返り抑留生活の辛さと、
今後作家として活動していきたいという決意の表明となっています。
満州国より帰国後は、伯父の咲平(気象の第一人者)が
公職追放されるなど気象台自体が組織として混乱しており、
気象台はバラック立てで隙間風が吹き抜ける状態で、
給与も微々たる物で大変な困窮ぶりでした。
手始めにアルバイトとして、教科書の気象関係の執筆を引き受けます。
このころ、ジュブナイル小説『超成層圏の秘密』
『狐火』などを著しましたが、刊行はされませんでした。
1949年に、妻・ていの書いた
『流れる星は生きている』がベストセラーになり映画化もされ、
とても生活が助かったため、さらに、作家活動を考えるようになります。
気象職員として最も知られている仕事に、富士山気象レーダー建設があります。
これには、1959年の伊勢湾台風による被害の甚大さから、
広範囲の雨雲を察知できるレーダー施設の設置要請を受け、
無線ロボット雨量計で運輸大臣賞を受賞するなど、
気象測量機の第一人者にして高山気象研究の専門として携わりました。
富士山気象レーダーは当時世界最高(高度)・世界最大であったため、
同レーダーの完成後はそのノウハウを
国際連合の気象学会で説明するなどの公務に明け暮れました。
この時の体験を基にして書いた作品が、小説『富士山頂』です。
小説の解説が、会計検査院の定期誌「会計と監査」に題材として連載されました。
またこの工事に関しては、NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』第1回で
取り上げられたのです。
新田の小説は緻密で、小説構成表(年表のように縦軸と横軸を設定し、
人物の流れを時系列に当てはめたもの)を先に作成してから執筆に取り掛かっていました。
司馬遼太郎が新聞記者であった頃原稿執筆を依頼しに行いましたが、
依頼を受けることができない理由として勤務時間・執筆時間・病気になる可能性などを
しっかりと並べて断ったそうです。
山岳小説、時代小説を問わず、現地取材を欠かすことはありませんでした。
歴史小説である『武田信玄』を最も気に入っており、
続編である『武田勝頼』、さらには続々編『大久保長安』を執筆するほどの
入れ込みようであったが、その執筆中に亡くなりました。
夫人のていも、自分の健康を顧みないほどの執筆態度をかなり心配していましたが、
不幸にも予感が的中してしまいました。
またNHK大河ドラマで映像化される事を熱望していましたが、
生前に実現を見る事ができませんでした。
<新田次郎のお墓は長野県諏訪市の正願寺に>
諏訪市図書館の2階には、新田次郎記念室というコーナーが設けられており、
取材で山に登った時の遺品や、本人や家族の著作や蔵書が常設展示されています。
ここには生前の書斎も再現されています。
また「お天気博士」として親しまれた、おじの藤原咲平記念室も併設されており、
蔵書を中心に胸像・遺品・墨蹟などが常設展示されています。
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