植村直己のお墓(2月13日が命日?)
2024/02/13
植村直己のお墓(2月13日が命日?)
植村 直己(うえむら なおみ、1941年〈昭和16年〉2月12日 -
1984年〈昭和59年〉2月13日)は、日本の登山家、冒険家。
兵庫県出身。
1970年に世界最高峰エベレストに日本人で初めて登頂しました。
同年、世界初の五大陸最高峰登頂者となります。
1978年に犬ぞり単独行としては世界で初めて北極点に到達しました。
1984年、冬期のマッキンリー(現:デナリ)に
世界で初めて単独登頂しましたが、下山中に消息不明となりました。43歳。
1984年、国民栄誉賞を受賞しました。
1984年2月12日午後6時50分、世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしました。
この日は、ちょうど植村の43歳の誕生日であった。
しかし、翌2月13日午前11時に行われた軽飛行機との登頂に成功したこと、
現在位置が20,000フィート(6,096m) であることを伝える無線交信を最後に
連絡が取れなくなり、消息不明となりました。
2月15日、軽飛行機が標高2,900mの氷河上に、
植村がクレバスへの転落防止に使用した竹竿があるのを発見しますが、
ベースキャンプや登山ルートに植村の姿は発見できませんでした。
最後の交信から3日後の2月16日、軽飛行機のパイロットが、
標高4,900m地点の雪洞で植村と思われる人物が手を振っているのを視認しました。
デナリ国立公園管理事務所は、軽飛行機2機、
高度5,000mまで飛行できるヘリコプター1機で広範囲の捜索を展開します。
2月20日、同公園管理事務所による捜索活動に参加していた2人の登山家が
標高4,200m地点の雪洞で、植村の日記、カメラ、
フィルムなどを発見します。
また、2月25日、標高4,900m地点の雪洞でも植村の所有物を発見しましたが、
植村本人は発見できませんでした。
2月26日、デナリ国立公園管理事務所は、
「植村の生存の可能性は100%ない」
として捜索を打ち切ります。
その後、明治大学山岳部OB「炉辺会(ろばたかい)」によって捜索が行われますが、
植村は発見できず、3月6日、標高5,200m地点の雪洞に残された
植村の装備を発見するに留まった(標高5,200m地点から山頂までの間は捜索できなかった)。
3月8日、炉辺会による捜索も打ち切られます。
植村と最後に無線交信できた2月13日が命日となりました。
4月下旬から5月にかけて、
明治大学山岳部OB「炉辺会」によって再度、マッキンリー山での捜索が行われます。
前回捜索できなかった標高5,200mから山頂までを中心に捜索が行われ、
植村が山頂に立てた「日の丸」の旗を回収ししますが、植村は発見できませんでした。
アラスカ州裁判所による死亡認定をもとに、
1985年1月、板橋区役所で死亡届が受理されたのです。
植村は人前に立つのは大の苦手で、
資金集めの講演会や記者会見で大勢の聴衆を前にして話をする際は、
第一声を発するまでしばらく気持ちを落ち着けなければなりませんでした。
しかし口下手ながら自身の体験に基づいた講演は多くの聴衆に感動を与えたのです。
<植村の魂はマッキンリーに>
マッキンリーのデナリで植村は消息を断ちましたが、
植村家の菩提寺である兵庫県豊岡市の頼光寺の裏山に植村直己の墓碑があります。
また最後の登山時に住んでいた東京都板橋区の乗蓮寺 境内にも墓碑があります。
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