伊福部 昭のお墓(2月8日が命日)
2024/02/08
伊福部 昭のお墓(2月8日が命日)
伊福部 昭(いふくべ あきら、(1914年〈大正3年〉5月31日[3][4] -
2006年〈平成18年〉2月8日)は、日本の作曲家。
日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、
『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られます。
位階は従四位。北海道出身。
1946年(昭和21年)、32歳。自宅で静養中、
知人から映画音楽の仕事の誘いがあり、栃木県の日光・久次良町に転居します。
その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が
伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任。
独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』作曲。
この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われたそうです。
特に芥川は2回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、
数日逗留したという逸話を持っています。
そのほかにも教育者として松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、
石井眞木、三木稔、今井重幸、永瀬博彦、和田薫、石丸基司、今井聡など
多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わりました。
1947年(昭和22年)、33歳。東京都世田谷区玉川等々力町に転居。
東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』
(公開題名は『銀嶺の果て』)
で初めて映画音楽を担当します。伊福部はこの作曲依頼について、
「おそらく私が山林官で、山奥の生活を
知っているだろうということであったのだろうと思っています」と語っています。
この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから
監督の谷口千吉と対立します。その日の録音を取りやめ、
演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたといいます。
このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明でした。
黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されましたが、
断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての
主人公の心情を表した音楽を意図したことが認められ、
最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価されたのです。
晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に
77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、
年を重ねてからも大作を書く筆は衰えませんでした。
この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や
二十五絃箏など箏の改良楽器およびその合奏のための作品が多いです。
1997年(平成9年)にそれまで戦時中に失われたとされていた
『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜が
NHKの資料倉庫から発見されるなど、晩年になってから
多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれました。
2005年(平成17年)ごろから体調を崩し始め、
翌年1月19日に腸閉塞のため東京都目黒区の病院に入院するも、
2月8日夜に多臓器不全のため死去。91歳没。
葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。従四位に叙されました。
遺作は結果として、2004年(平成16年)初演の二十五絃箏甲乙奏合
『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ — バレエ・サロメに依る』です。
しかし、川上敦子に献呈する予定だった『土俗的三連画』のピアノリダクション版、
ならびに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃箏曲
『ラプソディア・シャアンルルー』(「シャアンルルー」はアイヌ語で十勝平野の意)は、
病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったそうです。
伊福部の死去に対して、
「日本の作曲界を牽引した功績はとても大きい」(作曲家・池辺晋一郎)、
「映画音楽の大山脈をなした方でした」(映画監督・熊井啓)など、
各界から追悼のコメントが寄せられました。
<墓所は鳥取の神社に>
墓所は鳥取市国府町の宇倍神社にあります。合掌=
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