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岩崎 弥太郎のお墓(2月7日が命日)

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岩崎 弥太郎のお墓(2月7日が命日)

岩崎 弥太郎のお墓(2月7日が命日)

2024/02/07

岩崎 弥太郎のお墓(2月7日が命日)

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、旧字体: 岩崎 彌太郞、
天保5年12月11日〈1835年1月9日〉- 明治18年〈1885年〉2月7日)は、
日本の実業家。
現在の高知県出身で、34歳の時、
大阪で現在の三菱財閥(現:三菱グループ)を創設した。50歳で病死。

 

安政2年(1855年)、父親が酒席での庄屋との喧嘩により
投獄された事を知り江戸より帰国。
奉行所に訴えたが、証人は庄屋の味方をしました。
「不正を罷り通すがが奉行所かよ」と訴え、壁に墨で
「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」
と大書したため投獄されました。
この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、
後に商業の道に進む機縁となりました。

 

出獄後、村を追放されるも安政5年(1858年)、
当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、
後藤象二郎らの知遇を得ます。
東洋が参政となるとこれに仕え、土佐藩の下級藩士の一人として
長崎に派遣されました。
清朝の海外事情を把握するためでした。
イギリス人やオランダ人など「異人」と通訳を介して
丸山花街で遊蕩し、資金がなくなり、
帰国するが無断帰国であったため罷免され、
官職を失います。

 

この頃、27歳で弥太郎は借財をして
郷士株を買い戻し、長岡郡三和村の郷士・
高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶ります。

吉田東洋が武市半平太らの勤皇党によって暗殺されると
その犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に
藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴きます。
しかし、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国。
これは武市一派の讒言によるものでした。
帰国後、弥太郎は農事に精を出します。

 

慶応元年(1865年)、官有林払下げ許可が下ります。

当時土佐藩は開成館長崎商会を窓口に、
貿易商人ウォルシュ兄弟や武器商人グラバー、クニフラー商会
とも取引をしています。これら欧米商人から船舶や武器を輸入したり、
木材並びに強心剤・防腐剤として使用されていた
樟脳、鰹節など藩物産を販売しており、
吉田東洋の甥の後藤象二郎が弥太郎に主任を命じました。

 

 慶応2年(1866年)春に起こった土佐藩物産の樟脳の市場価格暴騰により、
土佐藩がクニフラー商会との間で契約不履行が生じた際には
弥太郎が窓口となったが、この問題の決着は明治維新後まで長期を要します。
また明治維新後、グラバーは三菱に雇われます。
 慶応3年(1867年)になると、吉田東洋門下の福岡藤次に
同行を求められ弥太郎は長崎へ行きます。

 

坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として
土佐藩の外郭機関となっていたが、慶応4年閏4月には解散し、
弥太郎は藩命を受け同隊の残務整理を担当しました。
その後弥太郎は後藤象二郎に転勤を頼み、
明治元年(1868年)、開成館大阪出張所(大阪商会)に移ります。

明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、
明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として
土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立ち上げます。
代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助、
弥太郎は事業監督を担当します。
明治3年(1870年)には土佐藩の少参事に昇格し、
大阪藩邸の責任者となり、英語習得を奨励しました。
明治4年(1871年)の廃藩置県で彌太郎は土佐藩官職位を失ったため、
九十九商会の経営者となりました。
九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航、
鴻池家や銭屋に抵当として抑えられていた
藩屋敷(現在の大阪市西区堀江の土佐稲荷神社付近)を買い戻します。
岩崎弥太郎は当地に本邸を構え事業を営み、
ここが三菱の発祥の地となります。

 

明治期当時、外国船は日本の国内航路にまで進出しており、
明治政府は「廻漕会社」を設立し幕府所有の蒸気船を与えたが
太刀打ち出来ず、また三井、鴻池、小野組などに設立させた
日本国郵便蒸汽船会社に、諸藩から取り上げた蒸気船を与え、
運航助成金も支給したがはかばかしくなかったのに対して、
九十九商会は高知—神戸航路、東京—大阪間の輸送で上潮でした。

明治5年、九十九商会は三川(みつかわ)商会となります。
明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し、
明治7年本店を東京日本橋の南茅場町に移し、
三菱蒸汽船会社へ社名変更します。

 

この時、土佐藩主山内家の三つ柏紋を元にして
(後に岩崎家の三階菱紋の家紋の意味合いを持たせる)
現在、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作りました。

弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて
紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、
各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを
事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して
藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて
莫大な利益を得ます。

この情報を流したのは新政府の高官となっていた
後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引でした。

弥太郎は最初から政商として暗躍したのです。

 

明治18年(1885年)2月7日18時30分、
弥太郎は胃がんのため、満50歳で病死します。
弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で
熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して
日本郵船となり、後を継いだ弟の弥之助は帝国議会の創立時に
天皇から勅選され貴族院議員となりました。
現在では日本郵船は三菱財閥の源流と言われています。

 

<墓所は一般には開放されておらず>

弥太郎は東京都豊島区の仰東小学校と三菱重工社宅の間の
個人敷地に埋葬されており、
一般的には解放されていないようです。

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