平賀源内のお墓(1月24日が命日)
2024/01/24
平賀源内のお墓(1月24日が命日)
平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) -
安永8年12月18日(1780年1月24日))は、
江戸時代中頃の人物。
本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、
戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。
源内は通称で、元内とも書きました。
天才、または異才の人と称される源内。
鎖国を行っていた当時の日本で、
蘭学者として油絵や鉱山開発など
外国の文化・技術を紹介しました。
文学者としても戯作の開祖とされ、
人形浄瑠璃などに多くの作品を残しました。
また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、
多彩な分野で活躍しました。
男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、
歌舞伎役者らを贔屓にして愛したそうです。
わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名。
晩年の殺傷事件も男色に関するものが
起因していたともされます。
安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移りました。
大名屋敷の修理を請け負った際に、
酔っていたために修理計画書を
盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、
11月21日に投獄され、12月18日に
破傷風により獄死しました。享年52。
<杉田玄白が平賀源内を評する>
『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、
当時の蘭学者の間に源内の盛名は
広く知られていました。
玄白の回想録である『蘭学事始』は、
源内との対話に一章を割いています。
源内の墓碑を記したのも玄白で、
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」
(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、
何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、
常識とは違うものを好み、
常識とは違うことをする、
しかし、死ぬときぐらいは畳の上で
普通に死んで欲しかった。〕)とあります。
発明家としての業績には、
オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、
火浣布 の開発があります。
一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、
これを史上初のプロペラとする人もいるそうです。
気球や電気の研究なども
実用化寸前までこぎ着けていたといわれます。
ただし、結局これらは実用的研究には
一切結びついておらず、
後世の評価を二分する一因となっています。
エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身は
よく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したといいます。
1765年に温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作。
現存しないが源内の参照したオランダの書物及び
その原典のフランスの書物の記述から
アルコール温度計だったとみられます。
この温度計には、
極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか
数字列も記されており華氏を採用していました。
土用の丑の日にウナギを食べる風習は、
源内が発祥との説があります。
この通説は土用の丑の日の由来としても
平賀源内の業績としても
最も知られたもののひとつですが、
両者を結び付ける明確な根拠となる
一次資料や著作は存在しません。
また明和6年(1769年)には
CMソングとされる歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、
安永4年(1775年)には音羽屋多吉の
清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、
これらをもって日本における
コピーライターのはしりとも評されます。
まさにマルチな才能の持ち主です。
<お墓は二箇所、東京都と故郷・さぬき市に>
戒名は智見霊雄。墓所は浅草橋場
(現東京都台東区橋場2-22-2)にあった
総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も
墓所はそのまま橋場の旧地に残されています。
また、その背後には源内に仕えた従僕である
福助の墓があります。
友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、
故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てました。
この墓の敷地は1931年(昭和6年)に
松平頼寿により築地塀が整備され、1943年(昭和18年)に
国の史跡に指定されました。
また故郷のさぬき市志度の自性院(平賀氏菩提寺)にも
源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、
義兄である源内を一族や
故郷の旧知の人々の手で弔うために
建てたと伝えられる墓が存在します。合掌=
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